8月8日 朝

甲子園がはじまった。智辯和歌山キャプテンの宣誓に朝から涙した。どうしても毎年、泣かされる。加齢とともに涙腺がゆるんできたのだろうか。ジムのトレッドミルで試合観戦をしたが、サガシガ対決がおもしろくて、なかなか降りられない、終われない。ただ、今日は午前中にディーアイワイをする予定なので、午後トレはテレビにかぶりつき、という事態にはならなさそう。というのも今年からはじまった暑さ対策のためで、選手のためでもあり、これは甲子園に足を運ぶ観客のためでもある。昨日も開会式の最中に熱中症のうたがいでひとり運ばれたと聞くし、もう昔の日本をひきずっている場合ではなく、地域ぐるみで本格的に対策を講じたほうがよいと思う。沢村貞子さんの献立日記にはその日の気温が記されている。うろおぼえだが、八月でも30度をやっと超える日が数日という感じで、もし今のように40度を超える日があれば、沢村さんは卒倒していたかもしれない。エアコン普及率も昔と今では比べ物にならない。縁側でうちわを扇ぎ、夕涼み。そんな日本は絵日記のなかにしか見当たらない。甲子園は午前中の試合のあと、いったん、中休み。開始が夕方4時か、5時。それで思い出すのがシエスタの文化で、ようやくという気がしないでもない。昼寝というか、昼食後は読書などをして過ごし、3時間ぐらいはゆったり、まったり、のんびりとしたいものだ。登山家の山野井さんは家のなかでくつろぐよりも山の上にいるほうが100倍ぐらい落ち着くと明言されていたが、本物の登山家にとって、山はそういった存在でもあるのだな、一般人は深く感じ入るのだった。菊と刀という名著がある。ルースベネディクトという女性人類学者の書いた日本文化の本だが、要約すると、これは恥の文化を徹底的に掘り下げた一冊であり、欧米が罪の文化であるのに対し、日本人は恥の文化だと決めつけたところから考察ははじまる。明日に続く。

8月7日 朝

あいつら恥を知らねえのか。森の石松が都鳥三兄弟の評判を聴いて本気で驚くシーン。恥を知らない人間がいるなんて。恥を習わなかったのか。恥をかいたことがないというのか。なんてこった。ぱんなこった。というわけで、今回のフランスはパリーのオリンピックに本気で驚いている人間のひとりとして、今朝のヤフーニュースでひときわ目を惹いた以下の記事を取り上げる。「フランス人よ、恥を知れ!われわれはここ数十年で最悪の五輪を見せられている。何から始めればいいのか。審判の偏った判定からか?それともセーヌ川の汚染の話か?」ギリシャ人記者の書いた手記のような雑文だが、ものの本質を見事に言い表している。恥を知らないフランス人。恥ずかしくて顔を赤らめるなど今まで経験したことがないのだろう。だから、いけしゃーしゃーと金メダルを持ち帰ることができる。恥を知っていれば、メダルを辞退して自腹をかっさばくのが本筋というものだろう。でも、無理。恥を知らないのだから。恥を知っている人間たちはどこにいるかというと、山にいる。本物の登山家たちは恥を知っている。近年、軽装で富士山に登り、遭難するという案件があとを絶たないが、本物の登山家たちは恥ずかしくて目も当てられないと嘆いている。本物の登山家たちは山を侮らない。どころか、山を畏敬する。恥を知っているから。人間の分際であると身の程をわきまえているから。山を登る理由はなんであれ、恥を知っていることが大前提であることはまず、間違いなく、某石丸元市長の決め台詞のように軽々しいものではないことも敢えて、付記しておく。恥とは。辞書を紐解くと、世の人に対し、面目、名誉を失うこととある。なるへそ。または、自分の欠点、失敗などを恥ずかしく思うこと、ともある。なるへ~そ。明日に続く。

8月6日 朝

もう広島の日か。明日は立秋。季節は実感と裏腹に残暑に突入する。それにしても昨日はすごい一日だった。前日比4000円安という数字をはじめてみた。なんじゃこりゃ。みなさんこれから塩漬けの日々がはじまるのだろうか。今朝は電車が各地で止まるかもしれない。晴れ渡った空に怒号が飛び交い、澄み切った景色に悲鳴が広がる。8月6日の朝。日本の未来に刻まれた遠い記憶。原爆投下のあと、黒い雨が降り注いだそうだが、昨日のゲリラ豪雨がそんな知見に寄り添う形となった。思い出に残る記憶って勝手に思い出に残るんだよなあ。ふいに思いついたのだけれど、もしディザスタームービーを撮ることがあれば、ラストシーンはこんなセリフを使ってみたい。模範はそーほわっとという映画。ひろしが電車に乗るラストシーン。「自由ってさ、孤独な旅なんだよな」というセリフに惹かれる。このセリフが好きで、孤独な旅という曲をつくったくらいだ。孤独な旅はなんにでも置き換えが可能だ。人生、学業、仕事、肉体改造、恋愛、スポーツ、京都、先斗町、料理、お笑い芸人、と思いつくままに列挙してみたが、〇〇ってさ、孤独な旅なんだよな、とつぶやくだけで周りから、お、と思われるかもしれない。孤独な旅といえば、今朝も北アルプスの滑落のニュースを目にしたが、つい最近、ケーツーを登っていたふたりの登山家の救出活動が打ち切りとなったニュースが世を騒がせた。著名な登山家なので、登山に興味のあるひとは知っていると思う。物心ついたころ、覚えている限り、映画館にはじめて連れていかれたとき、上映していたのが植村直己物語だった。そういった因果が関係するのか、冒険家、登山家といった人種にその後もずっと興味を持っている。太平洋横断の堀江謙一氏にあこがれて、小学生のころ、いかだをつくったこともある。あれで海に出なくてよかった。映画やドキュメンタリーもいろいろ観ている。このまえは山野井さんの人生クライマーを観た。平出さんと中島さんがケーツーで滑落したことを知って、すぐに思い出したのがアルピニストという映画だった。明日に続く。

8月5日 朝

フェンシング男子フルーレ団体が金メダル。決勝の相手はかつての栄光にすがる二流国フランス。勝因は八百長ができない機械判定が一部要因とこの機に留飲を下げる今なお世界で輝き続ける一流国ジャパンなのだった。今回のエセオリンピックにかぎらず、スポーツにおいて、バカ審判の誤審、誤謬、インチキ、ペテン、贔屓、歪曲、いやがらせ、過失、過怠、瑕疵、勘違い、筋違い、ちょんぼ、怠慢、ふしあな、愚盲判定を目の当たりにするときほど興ざめする瞬間はない。ただでさえ、オリンピック人気は下降気味にあり、経済効果にさほど結びつかないとまで揶揄されているというのに、ジャッジする現場がこれでは開いた口がふさがらない。これは野球にもいえる。大谷翔平に対する明らかなボール球をストライク判定する審判。審判って最低の職業だな、と毒づきながら、一刻も早く機械判定される日を待ち望む巷間の声が胸にせまるのだった。思えば、数々のミスジャッジを目撃してきた。自分に降りかかったミスジャッジもある。中学生のころの遙か遠い記憶。サイドラインを割っていないにもかかわらず、笛を吹かれたり。勤め人だったころの暫し遠い記憶。自分のせいではないのに責任を取らされたり。ミスジャッジというより、いやな出来事だが、つい最近の記憶。宅配ボックスに入れておくように指示したのに玄関前に置かれていたり。思い返してみると、なんて細かいんだ、なんと、ちっちゃな、ヒューマンエラーか、整理する意味で思い返すのも悪くないなと思うばかりだが、世紀の大誤審と聞いて、ぱっと思いつく三つを挙げる。ひとつめは柔道の篠原選手の一本。相手選手は確実に背中を地面に叩きつけられたにもかかわらず、いけしゃーしゃーと金メダルをかっさらっていった。あいつもフランス人じゃなかったか。フランス人はバカばかり。唐突にその昔、ブログでシャンゼリゼ大通りと日本の路地裏を比べていたバカなフランス人を思い出した。日本人とフランス人。クライテリアとディメンジョンの観点から考察すべきなのかもしれない。二つ目がwbcのタッチアップ、三つめが同じくwbcのメキシコのホームラン。興ざめというより、怒りで目の前が真っ暗になったのだった。

8月4日 朝

昨夜は淀川花火大会だった。景気が今よりましなころは平成淀川花火大会と二本立ての時期もあった記憶がある。さだかではないが、コロナのころは自粛していたはずで、無事、夜空に大輪の花が咲くと、それだけで健全な夏を実感するのだった。わざわざ現地まで見に行く気にはならないが、いつごろからか、ユーチューブライブで観る楽しさをおぼえた。テレビの中継と違い、花火会場と一体化するような臨場感がいい。同時にjコムでやっていた長岡花火大会も観た。すごい迫力。冷房の効いた部屋で酒を飲みながら花火鑑賞。我ながら穿った時をすごしたものだ。冷房をつけていたので、当然、ベランダの窓は閉まっていたが、どーん、どーんと花火の音が聞こえる。10キロ以上は離れているはずだが、すさまじいパワーだ。遠い国では轟音は恐怖に直結し、戦火の炎は街を焼き尽くすというのだから、いかに日本人がめぐまれているかということだろう。花火でよかった。今週の花火大会ウィークが終わると、街はお盆の季節を迎える。心なし、せみ時雨も弱まってきた。今年の夏のメインは来週の京都旅行かなという気もするが、ビアガーデンの予定もあるし、遊びはまだまだ尽きないという気もする。あと、何回、こういった夏を迎えることができるのだろうか。人生の季節でいうと、もしかして、夏はもうしぼんでしまったのかもしれないし、いまだ夏の盛りにいるようなギラギラな瞬間がときたま訪れないわけでもない。それでも人生は確実に進んでいる。ひとによっては、とっくに初秋も過ぎて、晩秋にさしかかっているという年齢かもしれない。うるせえ、ほっとけ、と強がってみても、先輩たちの背中はどんどん小さく縮んでいく。人生は夏の花火のようなものかもしれないな。ぱっと咲いて、ぱっと散る。散ったと思ったらまた咲いて。咲いた花もやがて散る。今日は甲子園の抽選会。一球に賭ける夏を見守ろうと思う。

8月3日 朝

東京物語を観た。本編を最後まで通して観たのは意外にもこれがはじめてだった。断片的にいろいろなシーンを覚えていたが、やはり際立っていたのは原節子氏の演技力と美貌。世界的に評価が高いのも頷ける。意外といえば、結構、前に観たデニーロ主演のエブリバディファインが東京物語のリメイクのリメイクであることも昨日、知った。最近というか、ここ十年で観た映画のなかではトップ10に入るぐらい好きな映画にもかかわらず、漫然と観ていたものだ。家族の絆って何かねえ、と考えさせられるドラマや映画が巷にはあふれている。松田優作主演の家族ゲームもそのひとつだった。菊次郎の夏なんかも思い出深い。お茶漬けの味も観た。こちらは夫婦って何かねえ、と省みるような映画だった。最後、お茶漬けをすするシーンで夫婦はその答えを見つける。夫婦ってお茶漬けのようなものなのだ。わかったようなわからないような茂吉の言葉が胸に迫る。唐突に大東京ビンボー生活が読みたくなって、全五巻をひっぱりだした。主人公、コースケくんは無類の映画好きで、新しい映画も見るが、古い映画もよく観る。名画座の最後の一週間。枕付きオールナイト劇場の演目には成瀬巳喜男主演のめしの文字がある。なかでも読み返したかったのは第二巻51話のビデオ三昧。「隣の学生が合宿に行っている一週間、おれもビデオ合宿をする」冒頭、そんなセリフではじまる。合宿の一週間、60本以上のビデオを見続け、最後は唯一、所有するソフト、東京物語で合宿をしめくくる。のんびりした時代の、のんびりしたエピソード。昔はとにかくレンタルビデオ屋をうろうろするというのが娯楽の王様だった。今もたいして変わらないが、新作の興奮よりも昔の映画の新しさにわくわくする最近なのだった。

8月2日 朝

これでイッパイ!小染の酒の肴のなかにこんな記述がある。「アテの量は少ないほうがええなあ。酒を飲む方がよういいはります。ワテも同感です。どんなに美味しい物でもドサッと盛られては酒が料理に負けるんだす。小鉢にチョコッと、それをハシ先でつまんで…これだす」酒飲みというやつはいじましいものでいつまでも酒を飲んでいたい。酔いつぶれるまで飲んでいたい。自分の世界に没頭して杯を重ね続けたい。そのために必要なことは決しておなかをいっぱいにしないことであり、酒を飲むときにあては欲しいが、量はいらないというひとを本当の酒飲みだと勝手に定義する。この定義に当てはめると、腹の立つ飲み方、というか、いやな飲み方をするひとが自ずから目につくようになる。三センチ四方のうなぎの蒲焼きを一口で頬張り、追いかけるようにビールを一口などは論外。三センチ四方のうなぎであれば、せいぜい、一度につまんで5ミリといったところだろう。これを舌先に載せて、存分に転がしながら、コップ酒を一気飲みする。胃の腑にぽっと明かりが灯り、ふわっと夢心地な一瞬が一輪の花を咲かせるようにゆっくりと広がっていく。のりの佃煮をハシ先でちょびっとつまむ。これも舌先に載せ、丹念に転がす。きゅうりのキュウちゃんならひとかじり。最低、二回か三回に分けて、かじりたいところだ。あるひとは瓜の塩漬けをあてに二升の酒を飲むときいたことがあるが、こうした酒飲みの心理を理解できない酒飲みというひともいて、酒飲みのくせに酒の飲み方も知らねえのかと突っ込みたくなるが、うるせえ、好きに飲ませろというのも酒飲みの心情であり、これは好みの分かれるところかもしれない。昔から飲み方がいやだなあと思っていたのは配信者のうなちゃんまん。このひとはひじょうに小柄な体格で、大酒のみというタイプではない。ちびちびと缶ビールやチューハイをいつまでもすすっていて、おなかが空くとメシがはじまる。そう、あてではなくメシなのだ。みょうがもきゅうりも焼肉もえびも寿司もみんな食べ方がメシ。メシがなくなると、またちびちびあてなし晩酌がはじまる。小染さんが生きていれば、一緒に飲んでみたかったなあ、しみじみ思うかというと、酔っぱらって軽トラと相撲を取るようなひとはまっぴらごめんですぜ、と今夜も一人酒に終始するのだろう。

8月1日 朝

今日から八月。激熱の夏。八月といえば、フェスの季節。お笑い芸人がM1を目指すようにバンドマンはフジロックに出場するため、汗を流す。ということをyouは何しに日本へというテレビ番組で知った。今年はいつだったんだろうと調べてみると、もう終わっていた。やはり、サマソニがメインですか。毎年、大阪は南港でやっているイメージが強いのだが、ここ数年は万博でやっている気がする。行くかというと、もちろん行かないのだが、猛暑の影響により、神社仏閣の観光を避ける年寄り連中とは違い、若者は暑くてもぼかあへっちゃらという輩が多いのかもしれない。炎天下に炙られながらロックに身体をゆだねるよりは冷房のなかで酒を飲みながら映画のほうがいい。あては何かと問われたら、そりゃあ、当然、セブンイレブンのあかにし貝と答える。なぜか。昨夜、たまたま、あかにし貝があてのラインナップに加えられていた。そした、たまたま、ユーチューブでかまいたちチャンネルを見た。濱家氏の酒の肴を紹介する回で、濱家氏といえば、飲みすぎで通風を発症するほど酒好きとして知られており、その回は傾聴に値した。とはいえ、酒飲みとしてはこちらのほうが上手。どうせ、奇をてらったあてばかりを紹介するのだろうと想定したその肴のなかにセブンイレブンのあかにし貝があった。まったく同じものを食べていたので、おもわず喰いついた。普段からあかにし貝をあてに酒を飲む濱家氏だったが、このあてにどっぷりはまったのが相方であり、下戸の山内氏だった。めちゃめちゃうまいを連発し、酒のあてにもかかわらず、つまようじに刺しては口中に放り込み続けるという酒飲みの前でやってはいけない愚弄を演じ続けた。そこで、思い出したのが、林家小染さんのことだった。名著、これでイッパイ!小染の酒の肴。のなかにこんな記述があったのだ。明日に続く。

7月31日 朝

7月も今日で終わり。祇園祭も見納め。疫神社夏越祭を以てすべて終了。8月に入ると、街は残暑の気配が色濃くなる。広島があり、長崎があり、終戦の日を迎える。その間に甲子園が開幕し、あれよ、あれよと盆がやってくる。今年の五山送り火の日は京都にいるはずだ。いろんなことを思い出しながら見送ろうと思う。世間はオリンピック一色。世界は猛暑のただなか。という感じでもなく、オリンピックは基本的に見ていないので、聞こえてくるのは誤審のニュースばかり。猛暑は暑ければ暑いほど、エアコン稼働率は高まるので、屋外にさえいなければ、逆に涼しい。猛暑で困るのは人間よりも屋外で育つ作物のほうで、コメ不足は続き、価格上昇も止まらない。とまれ、そうなると、やはり、人間が困るということにもなり、事態は深刻な状況かもしれないが、朗報がないわけでもない。8月電気料金1000円値下がり、というニュース。政府補助再開で家庭の負担軽減。わが関西電力も標準家庭で1040円の値下げ。3か月ほどの期間限定だが、ないよりはあったほうがまし、というわけで、冷房代をけちるのはやめましょう。冷房をつけず、命を削る。こんなバカは、と声を大にして言いたいところだが、思い当たるバカが自分のなかにもいるので、声は消極的に掻き消えていくのだった。そう、酒は命を削るカンナなどと申しまして、と落語のまくらにもあるように、酒飲みは命を削って、毎日、浴びるほど酒を飲んでいる。そんな日々を過ごしていると、身体が悲鳴を上げる日がやがてやってくる。昨日がそうだった。寝起きはそうでもなかったのだが、徐々に体調を崩していき、昼前には吐いてしまった。昼過ぎには決断した。今日は酒を抜こう。一年に一回か、二年に一回あるかないかの休肝日。酒のない夜もたまにはいいものなのだった。

7月30日 朝

日本も気温40度を超えるのが当たり前の国となるのか。一昔前の常識ではもう夏を乗り切ることはできない。出かけるときは日傘、サングラスは必須。というか、屋外での行動をとにかく避けることが重要。海水浴などもってのほか。冷房の効いた屋内でかき氷に舌鼓を打つのが正解。というわけで、昨日は何をしていたかというと、午前中はジムにいた。午後は巨大モールにいた。夜は自宅で日本昔話を観ていた。最近のマイブームというか、グルメ系昔話を観ながら、酒を飲むというのが定番化してきた。みょうがに味噌をつけて食べるののもマイブームで、それで思い出したのがみょうがの宿という一作。よく知られた話だが、おさらいしておく。宿屋を営む強欲な夫婦が金持ちの客を泊める。金持ちの客が身に着けた財布やら金銀財宝を置き忘れさせる方法はないかと夫婦で算段をする。それで思いついたのが、みょうが。みょうがをたらふく食べさせて忘れ物をさせることにする。な~る、と思ったあなたは由来通。みょうがを食べると物忘れをする、という由来について、ある程度は知っていたが、ひとに説明できるほど精通はしていなかった。由来を詳しく知ったのは水上勉氏の土を喰う日々を通じてからであり、ことあるごとに本棚からひっぱりだしては通読する手元になくてはならない名著だが、このなかにみょうがについての記述がある。昔、シュリハンドクというお坊さんがいた。晩年になって悟りを開いた偉い和尚さんだが、若いころは物覚えが悪く、自分の名前すら覚えられないので名前の書いた札を背負って暮らしていた。このお坊さんがなくなった地に芽生えた野菜が茗荷というわけで、このエピソードが定着した。みょうがを食べると物忘れをする、かどうかはわからないが、今朝は二日酔い。頭が働かない。みょうがのせいかも。