8月20日 朝

80円、足りなくて、バスに乗れず、炎天下のなか、歩いて帰った子供は果たしてかわいそうといえるか。答えはノーだ。かわいそうなのは子供を擁護する大人たちの脳みそのほうであり、平たくいえば、これこそが日本人に足りない金融教育の実態といっていい。金融教育を普及させると財務省が困るからなどと下種な側面すら勘ぐってしまう。おカネをただのツールととらえると、あればあるほど便利なものにはおそらく違いなく、多すぎる金は人を不幸にするだとか、幸せは金で買えないだとか、かつてニーチェはそうしたカネにまつわる感覚をルサンチマンと表現したが、結句、そういった感覚に左右されてしまう根本には金融教育の有無が深くかかわっているのだと思う。冷静に考えてみると、カネの多寡と、カネで幸せは買えないという主観に因果関係がないことがわかる。金融資産が莫大、イコール幸せか否か、不幸か否かにも感情の入り込む隙間はなさそうに見えるのだが、得てして、失敗談が美談になったり、成功譚に揚げ足取りの批判が生じたりと、こちらは夏目漱石が言いえて妙なことを言ったが、人の世というのは感情の渦巻きによって成り立っているところがあるので、知らず、知らず、巻き込まれることはあるのかもしれない。しかるに、そういった感情に巻き込まれる恐ろしさを知りつつ、警戒しながら暮らすことも金融教育の一環といえる。以前、ロトシックスか何かで何億円かを手にした人が半年で資産のほとんどを使い切ったという記事というか、手記というか、告白というか、そんなネットニュースを読んだのだけれど、使い切ったというよりはただ単に投資したというのが真相だった。このひとは金融リテラシーに長けたひとで、メンターも持っているし、幼いころから金融教育を受けているようだった。国が傾いてきて、やっとこさ、どっこいしょという感じで、ようやくニーサだイデコだと世間は騒ぎだしたが、本当に必要なのは子供の金融教育だと感じる。需給について学ぶ。資本主義について理解する。幼いころから徹底的に金融について勉強をさせることで80円の重さを思い知らせる。思い知るのは大人のほうかもしれない。

8月19日 朝

真言宗総本山。東寺。そういえば、空海を称して、仏教界のスーパースターと紹介している本があったなあと本棚を漁りにいったが、見つからなかった。その代わりに、密教のわかる本というのを見つけた。ずいぶん前に斜め読みした本と記憶しているが、そのなかに第22章、真言宗の行というのがある。供養法、結護法、勧請法、荘厳道場法、結界法、荘厳行者法の6つのカテゴリーがあり、さらに18の契印が配されている。この六法と18の契印を修行し、秘法を体得するわけだが、これが東寺で行われていたかというと、それがよくわからない。しかるに、六法は密教の秘匿であって、真言宗のすべてではない。そこで、またいそいそと本棚に出かけ、今度は司馬遼太郎氏の空海の風景を引っ張り出してきた。これは図書館のリサイクルブックでもらったもので一度もひも解いていない。これをつらつらと読み進めていくわけだが、要約すると、こちらは空海という人間像を構想10年を経て、描き切った大作。つらつらと読み進めて理解できる本ではないことがわかった。ここはもう手っ取り早く、京都でやっておきたい100のこと、歩く京都2008年版、今すぐ行きたい京都23コースで東寺で何が行われていたかをだいたい把握することにした。結論からいうと、知りたい情報は見つからなかった。そらあ、観光客向けの本なので、見ることの解説がメインであり、知ることの深堀は二の次というスタンスであることは明白。ということで、せっかく興味がわいたのだから、東寺、および空海のことがもっともっと知りたくなった。空海をテーマにしたファンタジー映画があったと記憶するが、映像から入ると、バイアスが残りそうな気もして躊躇もする。やはり、ここは徹底的に本棚を漁ることにする。新たな楽しみが芽生えた瞬間なのだった。

8月18日 朝

二泊三日の京都旅行が終わった。いつもは一泊旅行がほとんどなので、楽しい時間が単純に二倍になった。初日の夜は京都アバンティにある飲み放題の店に行った。お風呂にじっくり浸かり、汗をたっぷりとかき、涼しい部屋でクールダウンしてから出かけたが、アバンティに着く頃にはじっとりと汗をかいていた。15日の京都駅。混んではいたが、そこまで大混雑というわけでもなく、やはり人混みは河原町のほうに軍配が上がりそうだ。京都に来たなあと実感するのは行きかう人々が外国人ばかりなのと、大阪の街とは違って、白人の姿が多い気がするせいかもしれない。ユーは何しに日本への密着をライブで観察している感じ。大ジョッキ二杯と中ジョッキ三杯で終わった。京都駅周辺を散策したのち、ホテルへ帰還。またぞろ、ゆっくりと大浴場に浸かり、あとは部屋飲み。部屋の窓から世界遺産、東寺が見える。不思議な感覚。こういうところで暮らしているひとは毎日、東寺を見ているわけで、麻痺しているかもしれないが、ぜいたくとはこういう美観を指すのかもしれない。朝風呂のあと、朝食ビュッフェ。ひさしぶりのバイキングでテンションが上がってしまうかと思ったが、そうでもなく、控えめで終わらすことができた。とはいえ、ほぼ全種類のおかずを食べた。控えめにしたのは炭水化物だけという気がしないでもなく、漫画、パタリロのワンシーンを思い出すのだった。詳細は割愛。京都来訪のさい、車で通りかかる回数はそれこそ数えきれないほどあった東寺だが、実際に境内を歩くのは今回を含め三回ぐらいと記憶している。というわけで、東寺散策を実行した。真言宗の総本山。東寺。四天王寺によく行っていたころ、空海さんは身近な存在だった。弘法太師。弘法さん、お大師さんの名で親しまれ、毎月、21日には大規模な縁日が催されるので、わくわくした思い出がある。その空海さんの修行場が東寺。知っているようで知らなかった東寺もこの機会に勉強した。そういうえにしがあったのだねえともう少し深堀したくなったのだった。明日に続く。

8月15日 朝

とうとう騎士団長に昇格した。長かったような、短かったような、1000までの道のり。次は2000本を目指して、こつこつと鳥貴族に通う。お盆も中日。さすがに少ないだろうと思っていたが、めちゃこみだった。予約なしで待合席に座っていた3人組は店員が対応するや否や追い返されていた。海外旅行にお墓参りに鳥貴族。いろいろなお盆の過ごし方があるようだった。翻って、こちらは今日から二泊三日の京都旅行。五山送り火を見て、思い出にひたるつもり。京都の夏は暑いだろうなと覚悟を決めているが、ほとんどの時間をホテル内で消化するので、出歩くのは夜ぐらいかなあ、と。夜も暑いかな、と。さて、昨日はなにがあったかなあというと、岸田首相が次の総裁選に出ないことを決めた。そのおかげで11時54分からの天気予報が飛んだ。あと、桐蔭の夏が終わった。桐蔭にしてはめちゃめちゃ早い夏だった。もめていた金龍のしっぽが切断されることが決まった。台風7号が関東に近づいた。メルカリ営業益が過去最高を更新した。今日は何があるかなあというと、終戦記念日の式典がある。終戦記念日を敗戦記念日と呼ぶ井筒のような左巻きが心底、嫌いだということを思い出す日でもある。早起きするつもりが、普段よりも遅起きとなり、あせっているかというとそうでもなく、いつも通りの朝のルーティンをこなし、今にいたっているのだが、最近のルーティンは以前と異なり、歯磨きのあと、ウォーターピック、洗口液、抜け毛予防、目洗い、ピーリングジェル、オールインワン、洗面台掃除が洗面台のまえでも一連行事となった。それからサプリを飲むのだが、そのまえに湯をわかし、鼻洗浄をする。本来は花粉症の時期だけのものだが、コロナのこともあり、なんとなく暑くなっても続けている。ブログも習慣なのでキーボードを打つが、明日、あさっては打てないかもしれない。習慣を制する者が自己を制するのだった。

8月14日 朝

鳥貴族に行ったのにぼんじりを頼むのを忘れるというまさかのぼんみす。三角の日の50ポイント獲得ならず。それでもとうとう騎士団長まであと串10本というところまで迫った。積み重ねた串数、実に990本。千本の次は二千本といきなりハードルが跳ね上がる。2000本の賢者の次は5000本の大臣トリッキー。最終目標は10000本の王様トリッキーだが、騎士団長がとりあえずの終着点ではあるような気がする。トリキアプリを始めてどれぐらい経つのか、覚えていないが、昨日は88万ダウンロードを達成したとかで88ポイントをくれた。最初の何百ダウンロードのうちのひとりに入っている気がしないでもない。今日は4のつく日なので白ネギ塩昆布で金麦を一気飲み。そういえば、一気飲みを見なくなったなあとつとに感じるのは気のせいか。昔はジョッキを手にしたら最初の一杯をいかに早く飲み切るかが、男の勲章だった。つまらない勲章だが、そのくせはなかなか抜けず、店内を見渡せば、だれも一気飲みなどしていないのだった。社会情勢の変化もあるが、きっと大学コンパ等の痛ましい事故が一気飲み禁止に拍車をかけたのだと思う。早食いもそうだった。いいことだと思う。馬鹿げた強要などはやめて、アルコール、ソフトドリンクを問わず、それぞれのペースで鳥貴族を楽しめばいいのだ。というわけで、本日も予約完了。自分のペースでサウナ後の一気飲みをする。そういえば、昨日、サウナ室のなかで智辯和歌山vs霞ケ浦の試合が流れていた。ちょうど、延長の決着がつくタイミングで、よくは聞こえなかったが、ジョックロックがかかっていたと思う。願いは届かず、霞ケ浦のまえに散ってしまった。最後の登場となった花巻東も散った。甲子園に咲いた花たちも気づけば半分に減ってしまった。今日、また、減る。明日、もっと、減る。最後に咲き誇るその一輪はいかに。お盆休みも中盤に差し掛かった。まったり過ごそう。

8月13日 朝

お盆がはじまった。同時にオリンピックが終わった。これほどおもしろくなかった、というか、まったく競技を見なかったのは北京以来だ。アホの国、フランスがますます嫌いになった。日航機墜落から39年。大社高校62年ぶりの甲子園勝利。高知県勢夏100勝。ウクライナロシア28集落制圧。毎日、毎日、数字が飛び交っている。数字といえば、イーロンマスク率いるテスラの名付け元であるニコラテスラは3にこだわった。369の法則として知られる、3という数字に秘められた深い謎。ちょっと見渡せば、この世の中は3が至る所に鏤められていることに気づく。3で満たされているといっていい。三次元、三原則、三振、三冠、三国志、三顧の礼、三日天下、三日坊主、石の上にも三年、三度目の正直、三人寄れば文殊の知恵、三種の神器、と数え上げればきっときりがなくなるぐらい3だらけの世の中に生きている。3を制する者が世の中を明るくするというようなユーチューブも見たことがある。翻って、本日は13日。3のつく日であり、なんかあったかなあと思い返すと、3のつく日は三角(ぼんじり)の日というわけで、鳥貴族でぼんじりを食べると、トリキクエスト50ポイントをくれる。今夜は鳥貴族に決定。昨日はサイゼリヤに寄ったのだけれど、いつもおいしいサイゼリヤの料理の味があまり感じられなかった。おそらくサウナに入りすぎて、体が塩分を欲していたからだと思う。風呂上がりにワインのスプリッツァーはおいしかったが、なんかすべての料理の味付けが薄く感じられた。サウナ後は味の濃い鳥貴族のほうがしっくりくるのかもしれない。そういえば、鳥貴族の均一値段もだいたい300円と覚えていたのだが、気づけば、だいたい400円になりつつある。3の法則からはみだしたとたん、崩壊の声がささやかれるのかもしれないが、370円をやめて369円にしてみてはいかがかとニコラテスラの法則をここでも持ち出してみるのだった。

8月12日 朝

夏場の男性のにおいに言及した投稿をして所属事務所をくびになったフリーアナウンサーが、今度は青山プロダクションにも契約を解除された。アナウンサーなので所属事務所はわかるのだけれど、この青山プロダクションは何をしている会社かというと、ビジネスマナーの研修や講演を行う会社。この会社を通じて、某フリーアナウンサーはハラスメント防止研修講師として仕事をしていた。ジェンダーハラスメントだ、女性だってくせえやつはくせえんだよ、というような反発を受けて、しれっと投稿を削除したことも火に油を注ぐ行為としてさらに炎上を加速化させた。どういうことを書いているかというと、まあ、当然のような気がしないでもないことを書いているのだが、男性に限定したことが失言の一因であることはまず間違いなく、30年前のセクシュアルハラスメントブームから世は一転、今はジェンダーハラスメントの時代なのだなあと痛感した。くさいのは苦手。わかる。じゃあ、どうするか。マスクを着けなさい、と自己防衛に徹するしかないコロナ後の現実に絶望する気持ちもわからないでもない。マスクをしましょう。「そうです、私が美容バカです。まんきつ著」のなかでとても破壊力のある4文字の言葉を挙げていた。それが「くさそう」だった。これは、ブス、とか、デブ、とか、ハゲ、とか身体的特徴を捉えて発する侮蔑よりもじわじわと効いてくるというか、最も尾を引く、ショックで、立ち直れない、ダメージの深い言葉みたいなイメージで書かれていて、立ち読みしただけなのでディテールは異なるかもしれないが、とにかく、ぐさっと傷つく形容詞みたいな書かれかたをしていたと思う。このフリーアナウンサーの写真を見たが、顔がくさそう。

8月11日 朝

一番よくわからない祝日というのが山の日というわけで、いつできたかというと、ちょっと前にできた。労働者のための祝日であれば6月が適切ではあったが、経済界の要望で8月の連休に決まった。6連休か9連休。なかには10連休というひとがいるかもしれない。今朝はごはんを炊くのをやめてそうめんにする。夏休みの一工夫といったところ。あるひとは今日、富士山に登るという。あるご夫婦は今日から旅行。沖縄、下呂温泉、北海道、東京を二週間かけてめぐるらしい。猫も杓子も夏休み。墓参に五山にお仏壇。お盆にこぼんにブリンバンバンボン。というわけで、ずっと気になっていた歌をユーチューブで検索して聴いた。外出先でよく流れる歌。ずっと外国人が歌っていると思っていたら日本の有名グループだった。これ、ライブで歌えるんや、と素直に驚いた。昔、ビートたけし氏が「今の芸人って精密機械みたいな笑いつくってくるじゃん、やだな、って」みたいなことを言っていた。聞き手のさんま氏が「おれも一回りまわってベタが好きやもん」と返していたが、そんな心持がしないでもない。テレ朝の甲子園のテーマソングもそんな感じ。ずっと好きだから、という精密機械のような歌はすばらしいのだが、バンド名が、ねぐせ。パンクで育ったせいか、どうしても歌にはアンチテーゼを求めてしまうが、もうそんな時代は昔過ぎて、世代の移り変わりとともに薄れていくどころか、終わってしまったのかもしれない。原爆の衝撃も80歳以上の追憶。そんな世の中に反発しているわけでもないのだが、最近、ジムのトレッドミルでよく聴いているのが初期パンクオムニバス。懐かしの名曲がずらずらずらと並んでいる。ラモーンズ、ジョニーサンダース、スティッフリトルフィンガーズ。ピストルズのボディーズも単体で聴くと、名曲過ぎて他の代表曲を忘れてしまう。共通するのは荒々しさ。精密機械とは真逆のポンコツマシーン。だが、それがいい。そう考えると、山の日もポンコツっぽくていいなあ。

8月10日 朝

テレビをつけると、ペイペイ給与払い厚労省が認可みたいな文字が目に飛び込んできた。一秒でHDMIに切り替えたので、読み間違いかもしれないが、ペイペイ給与払いが話題になったのはずいぶん昔のイメージがある。少なくとも5年前ぐらい。これも勘違いなのだろうか。給与をもらう生活をしていないので、よく知らないが、とっくに活用済みとおもっていた。ペイペイ活用に反対する声も聞かれたそうだが、給与振り込みの施行のさいもそういった違和感をおぼえた連中がいたそうなので、これは過渡期によく垣間見られる現象のひとつに過ぎないのだろう。無視すればいい。無視できないのは南海トラフ巨大地震、というわけで、宮崎の地震を機に気象庁が運用以来、初めて巨大地震注意を発表した。いよいよか、という思いと、果たして、一週間以内はほんまかなという疑問符がいっしょくたになって、頭のなかをぐるぐると巡っているが、備えは必要。まず、思いついたのが、和歌山旅行はしない。ふたつめは水を多め多めで備蓄しておくこと。みっつめはいつなんどき地震に遭遇しても落ち着いて行動すること。これぐらい。耐震補強やローリングストックは済ませているし、マンション暮らしなのでおそらく体育館に避難することもない。あって、車に寝泊まり。その際の寝袋もあるし、時期が時期なので、そんなものは必要ないかもしれない。それでよく巷に流布するのが阪神大震災の教訓。いざというときの現金はいくらか用意しましょう、というもので、この発想も無視していいと思う。断言するが、被災の際に現金は必要ない。阪神大震災の被災者として声を大にしていいたいが、当時の教訓を今に生かす必然性はない。被災地で飲み物や食べ物を現金で購入するという時代でもない。あのころは違った。闇市を経験したことはないが、きっとこういう感じだったのだろうな、というほど現在の意識とは異なる景色がいたるところに広がっていた。ペイペイが使えない、イコール現金も通用しない。政府が緊急時、あるいは平時にやるべきはそういう世界の構築だと思う。

8月9日 朝

日本と欧米の違い。日本は恥の文化であるのに対し、欧米は罪の文化だと明言した名著、菊と刀だが、一端を垣間見たことが、一度ある。それほど大げさなことではないが「電車ではさまれたとき、日本人は恥ずかしい記憶としてインプットされる」というエピソードを聞いた外国人が「それは痛い記憶じゃないの?」と素朴に聞き返したのだ。クールジャパンだったと思う。なんかの番組だった。恥をなによりも忌み嫌った日本人ではあるかもしれないが、昨今の風潮は少し変わりつつある。相変わらずの同調圧力、右へ倣え、出る杭は打たれる文化は根強いものがあるけれど、目立ったもの勝ち、再生回数がすべて、人生を変えるために応募しましたという人種が欧米から見た奥ゆかしい日本を変えつつあるのだ。プラスに捉えることもマイナスに見えることも無論、あるのだろうが、本質はそこではなくて、むしろ、変わらない高みに挑み続ける日本人を対象に考察すべきであり、見渡す限りそういった日本人は下界にいない、あるいは少なくなった。皆、よくも悪くも変わっていくのだ。変わらない世界がどこにあるかというと、クライマーの世界にある。世の中で興味のあることは山を登ることだけ。そんなひとを追ったドキュメンタリー映画を以前、観た。主役はマーク、アンドレ、ルクレールという25歳の若者。フリーソロの登山スタイルで当時、すでに天才アルピニストと呼ばれていた。たったひとりで次々と高峰を制覇するマーク。小さいころから少し変わっていたと自他ともに認める、大人になっても実際、風変わりな印象のあるインタビューで彼のひととなりの一片をうかがい知ることができる。クライマーを追ったただのドキュメンタリーに過ぎないと思って観たら大間違い。最後は悲劇で幕を閉じる。平出さんと中島さんの滑落ニュースを知り、まっさきに思い出したのがそのラストシーンだった。登山家にあこがれるこの気持ちはきっとそこに最後のサンクチュアリが存在するからだと思う。オリンピックはもう飽きた。