8月31日 朝

生ハムメロンをひさしぶりに食べた。もしかしたらはじめてかもなあというぐらい記憶がない。バブル期の象徴のような料理だが、完成度は随一で、漫画、大市民ではシャンパンと生ハムメロンの組み合わせを酒とつまみのひとつの極致と表現している。言いえて妙というか、生ハムの塩味とメロンの甘味、メロンのしゃくしゃくとした食感と生ハムのしっとりとした歯ごたえが口中で交ざり至高の一瞬を繰り広げるのだった。こんなことができるのも夕張メロンをもらったからで、結句、こういう食べ方でしか消化できなかった。シャンパンを合わせていたかというととんでもでべそで、いつものように焼酎のウーロン割を飲みながら、生ハムメロンをつまんでいるのだった。ああ、おいしかった。おいしかった、といえば、昼はひさしぶりにはま寿司に行ってきたのだけれど、平日、税込み110円うどんが誕生しており、こちらはこちらでびっくりした。あおさの味噌汁もクーポンで無料。なんですか、この破格感。以前はどんぶらこどんぶらこと回転レーンを回って注文品がやってくるはまー門真殿島店もリニューアルして東淀川店とおなじになった。魚べい、かっぱ寿司東淀川店と同様、高速レーンのみ。メニューはタブレットと眼前据え付けタッチパネルの二本立て。さらに110円うどんがラインナップに加わって、なんとも魅力的な店になったものだなあと昔の惨状を思い出すのだった。うどんをいただくなら、これからははまー一択かもしれない。ところで、この、はまー、という語尾を伸ばす言い方はくせのようなもので、ほかに、しまむらー、といったりもするが、思いつく限り、語尾を伸ばすのはこのふたつだけかもしれない。ヤフーも語尾を伸ばすが、ヤフーはヤフーであるし、というわけで、今朝のヤフーニュースをチェックするが、とくに興味のあるトピックスはなく、台風まだかなあと今夜も生ハムメロンに舌鼓を打ちつ打たれつ、うつつを抜かすのだった。

8月30日 朝

台風は何をしているのだろう。なぜ、やってこない。来るならさっさと済ませてほしい。28日の予定を9月3日に遅らせたが、そっちのほうが危険というこらまたとんでもでべそな展開になってきた。楽しみにしていたプールサイドビアガーデンもこのままでは怪しい。だいぶ勢力は弱まったようだが、風も雨もすべてエヌジーなのがビアガーデンなのであって、やはりクーラーの効いた屋内で飲食するのが最高と改めて思い直したのだった。とはいえ、前回のプールサイドビアガーデンがあまりに楽しく、気づけば4時間が過ぎていたという七夕の夜だったので、そのすばらしかった夜の思い出がちらちらと脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かんでくるのだった。どちらにせよ、今年、最後のプールサイドビアガーデンなのだ。できれば、雨でも開催してほしいなと切に願いつつも、雨ならたぶん行かないだろうなとも、なんとも乏しい気分でもあるのだった。さて、昨日はデコピンの始球式に多くの野球ファンが癒されたわけであるが、8月も終わりに近づくと、ポストシーズンの話題に事欠かなくなる。昨季までのエンゼルスとは違い、今年は常勝軍団ドジャースの一員であるとともに、50-50という前人未踏の記録を達成しそうな勢いで以てシーズンを突き進んでいる大谷選手。ほぼプレーオフ進出は間違いないと安堵していたのも今は昔。2位と3位が猛追している。気を緩めれば喰われるかもしれない一進一退ではあるが、ドジャースも現状、パドレス、ディーバックスに劣らない強さを見せつけている。その原動力は大谷選手の好調ぶりはもとより、中心選手たちがけがから戻ってきたことが大きい。打撃力はおそらく問題ない。問題は投手力というわけで、よしのぶとグラスナウの復帰が待たれる。そんななか、よしのぶの復帰めどがついたようだが、実際は台風10号の進捗と似たような気がしないでもないのだった。

8月29日 朝

映画、湯道を観た。最初、サ道のようにドラマかとおもっていたら、映画だった。つぶすか、残すか。古い銭湯を取り巻く人間ドラマ。よくある構成だが、その主軸の構成とは別に、湯道という宗派の物語も同時進行しており、そちらがおもしろかった。サ道があるように湯道もあってしかるべきであり、なぎらさんにいわせてみれば酒道もまたしかりなのだった。道、究めれば、それはすべて道に通ずる。この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ、行けばわかるさ。道に通じたければ、迷わず行くしかないのだ。湯道の家元は実際に存在する。というか、そのひとがこの映画の脚本を担当している。そのひとの名前は小山薫堂。映画では角野卓三氏が演じている。家元の一番弟子の演技も見事なものだが、家元はひとあじ違う。あああああああぁぁぁぁぁ~という声が聞こえてきそうな、そんな顔を浮かべて湯船に浸かる。まさに極意なのだった。小山氏のこだわる湯の道にはいくつかの約束事がある。そのひとつが、古きを尊び、新しきを歓迎するというもので、これは100年の計である経営学にもおなじことがいえる。結句、道とは机上の空論ではないのだ。小山氏に訊く26の質問のなか、いくつか気になるトピックスを挙げてみる。人生最高の一湯は?長崎のおたっしゃん湯。映画のなかでは紅の湯と改変していたが、人生最高の一湯の目安となった。お風呂のルーティンは?水風呂。サ道だけでなく、湯道にも温冷交代浴が大切ということだろう。最後に。お風呂とは?気づきスイッチ。湯遊ワンダーランドとおなじ結論に落ち着くのだった。

8月28日 朝

湯遊ワンダーランドの三巻が届いた。相変わらず下品だが、下品のなかにポエミーな部分もあって、まんきつワールドをまんきつできる。へたうまな絵というか、独特の作画はおそらく読む人を選ぶ。好きなひとは好きかもしれないが、嫌いなひとは嫌いだろうなあ、とおよそ森羅万象すべてに当てはまるような感想を抱いてしまうのだった。8割がサウナについて。残り2割が人生のなんたるか。そうやって読み込むと、また違った実感がわいてくる。下品は紐解けば、人生のもういっぽうの素顔なのだった。末広がりな第88話。ばっくれワンダーランドで、編集者、高石は失踪する。失踪先のサウナ施設のなかで、まんきつの言葉を思い出し、自答する高石。そのなかで、ぐっと胸に迫るセリフがあった。「確かに白黒つけすぎている。好きでも嫌いでもないグレーが僕には足りないんだ」ぐっときませんか。生きづらいこの世の中、何かにすがってひとは今日も息をし続けるわけだけれど、気づくと、呼吸方法を忘れていることがある。あまりに当たり前すぎて。よほど単純すぎて。自分の心臓の爆音で眠れなくなる、という描写がサ道の何巻かにあったが、生きにくさのアファメーションは、ふ、とした瞬間に訪れる。サウナーにとって、その解消法はやはりサウナに行くことであり、サウナ室、水風呂、外気浴を繰り返すことで、生きにくさの両端がぐりぐりと削られていく。先端がなくなっても、真ん中は残っているわけで、気を抜くと、またぐりぐりと両端が芽生え始めるわけだが、サウナで気を抜きつつ、気を引き締めるというか、このあたりのさじ加減が難しいのだけれど、まんきつさんは見事なインプレッションで言い表している。「あ、今、日常から解放された。ごちゃごちゃした頭の中が整理整頓されていく。脳のデフラグじゃ~」サウナに行って、脳のデフラグを実行する。湯遊ワンダーランド。感動の最終巻なのだった。果たして、ドラマにシーズン2はあるのだろうか。

8月27日 朝

シーサーブログのメンテナンスで更新ができなかった。一度、機会を失うと、もうそれまで、というのは振り返ってみれば、自身の執着心のなさの表れだと感じる。執着心がないから、何年も続けてきたことをスパッとやめることができる。やめてよかったと思える最たるものはたばこだ。たばこをやめてよかった。執着心とはまた別の問題かもしれないが、ある歌をきっかけに、走り続けることは安寧や安穏と背中合わせであることを認識し、走り始め続けることの大切さを知った。終わったら始まるのではなく、終わらせたら、始めるのだ。転がる石をあえて押しとどめ、違う坂道を探す。もう一回、転がるパワーが残っているかどうか。これは確認作業でもある。何年、経っても転がり始め続けるのだ。転がる石に苔は生さない。これにはふたつの意味がある。通常、苔は財産を示す。職業や住む場所を変えてばかりいる人間は財産を築けない、というような意味でつかわれるが、もう一方、苔は贅肉と捉えることもできる。ライクアローリングストーン、ローリングストーンズ。それで、思い出すシーンがある。大好きな映画。ソーホワットのなかで、バンド名が決まる瞬間のセリフだ。「やっぱ、苔むす岩より、転がる岩だよな。そうだ、バンド名、ローリングロックスにしようぜ」「なんか、ストーンズみてえだな」こうして、バンド、ローリングロックスが誕生する。映画のなかの主人公、ヒロシも執着心がない。「自由ってさ、孤独な旅なんだよな」というセリフを残し、電車に乗り、ひとり東京に向かう。「おれの貸した金、どうなんだよ」「代わりに車やるよ」車も友達にあげてしまう。東京に向かったヒロシはどうなったのだろう。主演の南渕一輝は芸能界をすぱっとやめて、その後、起業したそうだが、ヒロシは腹を空かせて帰ってきたのだろうか。腹をすかせたまま、野良犬のように今も転がり続けているのだろうか。ひとりハウンドドッグになった大友さんのようにひとりローリングロックスを続けているのかもしれない。そういえば、この映画の原作も大友さんだったな。

8月25日 朝

大谷翔平が40-40クラブの一員となった。だけでなく、50-50クラブの創設者になるかもしれない。昼食後、野球速報をずっと見ながら、ゴロゴロしていたのだが、ツーアウト、代打マンシーでほぼ大谷さんの出番はなくなったと思っていた。違った。次の瞬間、満塁ホームランの文字が。マンシーが打ったのだろうか。いや、ランナー2、3塁でマンシーだったはず。まさか、まさか、まさか。大谷翔平、サヨナラグランドスラムでフォーティーズフォーティーを達成。スポティービーナウの解説者もいっていたが、まさに漫画の世界。らんま二分の一が終わって、スラムダンクがはじまったが、スラムダンクよりも漫画の展開。うれしくて発狂しそうになった。ジャッジのプレーはおもしろくて、大谷のプレーは退屈だと発言した米スポーツ番組司会者がいたが、はっきりいおう。ジャッジは退屈だ。マルセルオズーナに限ってはさらに退屈だ。盗塁ゼロ、って。プホルスだったか「オズーナが三冠王をとればMVPはオズーナだ。三冠王はそれほど難しい」といっていた。フォーティーズフォーティはそれほど難しくないのだろうか。大谷さんが三冠王を獲ることは可能だが、オズーナがフォーティーズフォーティーを達成する可能性はゼロだ。なぜなら、盗塁ゼロだから。何度も何度もいってきているが、ジャッジの62本はいずれ誰かが更新するだろう。だが、大谷選手の二けた勝利ホームラン王を更新する選手は皆無だ。だって、挑戦者がゼロなのだもの。ついでにいうと、現時点で三冠王に最も近いのは大谷だと思う。打点もとうとう二つ差にまで迫った。ホームランはオズーナに三本差をつけているが、おそらくここから独走モードに入る。そう、今年のチームはエンゼルスではないのだ。あとは首位打者か。ア・リーグなら今年は無理そうだが、ナ・リーグの今年はいけるかもしれない。三冠王はもう目の前だ。せっかくなので付け加えておくと、大谷がいてもいなくてもエンゼルスの四位は変わらないといっていた識者よ、エンゼルス今日もほぼ完封で終わりました。テーラーウォードの一発が飛び出す9回までゼロ安打でした。4位ではなく、5位です。最下位街道まっしぐらです。大谷翔平から目が離せない。

8月24日 朝

京都国際が優勝した。案の定、批判の集中砲火を受けている。批判の矢面に立ったのはその校歌であり、全文、ハングルの歌詞はもとより、東海という表現を公共放送が流したことに怒りの声が飛んだ形だ。数年まえ、ベスト4に進出したさいも同じような声は聞かれた。まさか、優勝すると思っていなかったのだろうか、大会関係者もNHKもなんの対策も打たず、結句、今回のような事態に至った。コリアンウォッチをしていると、東海などという向こうの浅ましいこだわりがいかに理不尽で鬱陶しいかという局面をたびたび目撃する。バカの一つ覚えとばかりにやり過ごすようになったのはいいが、自国の甲子園という晴れ舞台で、この言葉がこだまするのはいかがなものか。朝鮮学校になぜ出場権があるのか、というこの一点からひも解くと、そのキーワードは国際という冠のまやかしさに行き着く気がする。なんでもかんでも国際とつけておけば、批判の矢面に立たずに済む。そう考えると、合点がいくことは多い。シナ人スタッフが尖閣諸島をシナの領土だと説明する前代未聞の失態もエヌエイチケーが劇場となった。危機管理の薄さを指摘する声は多いが、本質はもっと別次元にあり、国際にまつわる感覚の乏しさに由来する気がしてならない。国際につきまとう修飾語をぽわんぽわんとシャボン玉の泡のように浮かべていくと、ひとつの伏線が見えてくる。シャボン玉の泡は、事なかれ主義、先送り、時期尚早、当たらず障らず、穏便、平穏、安泰、あんぽんたんと過去、何度も何度も見せつけられてきた日本のヤミーな泡なのだった。いっそのこと、朝鮮漬けを国際漬け、とか、アジア人を国際人、とか、シナ向けの放送を国際放送、とか、あ、これはすでにやってるか。京都国際高校。言いえて妙な学校名と思う。京都国際の主将が校歌に対して、批判があるのはしょうがないと思ってます、みたいな大人なコメントをしていたことが救いではあった。

8月23日 朝

サウナマイブーム再到来というわけで、サ道と湯游ワンダーランドをまたぞろ読み返している。最初の一読のときとは違い、再発見にあふれていて、おもしろい。サウナが日常に溶け込んでずいぶん経つが、何か変わっただろうかとぱっと最初に思いつくのはやはり肌の調子がいいというか、特に温冷交代浴を繰り返しているときは肌がつるつるになる感覚を自覚しやすい。血行がよくなったせいもある。サウナの主役は水風呂とよくいうが、サ道のエピソードにもあったようにほんとのほんとの主役はサウナマンになること。一読のときは気づかなかったが、いまではその意味が身に染みる。「血行がよくなったんです。つまり。年月をかけて古い細胞が入れ替わり、サウナによって変身したんですよ」イケメン蒸し男の言葉のとおりだが、生活のなかで水風呂が欠かせなくなったおかげで、血圧が安定してきた。血圧の安定は健康のバロメータであり、万病予防の基礎ともいえるわけで、温冷交代浴のない入浴は入浴もどきであって、湯上りの満足感にとぼしいとさえ、いまでは思える。水風呂のよさを知らないころ、旅行先の大浴場でサウナがあっても積極的に入ることはしなかった。温かいお湯こそ醍醐味で、長湯して汗をかけばかくほど、その後の生ビールにつながるのだとひたすらに信じていた。今は違う。情報にはアップデートが不可欠なように生活スタイルにもアップデートがいる。よく昔の感想をごっちゃにして揚げ足をとる人間がいるが、そこにこだわりを持つことほど愚かな間違いはない。昨日と今日では世界が変わるのだ。サウナつながりで、たまたまサバンナ高橋氏のユーチューブを昨夜、見ていたのだが「以前は10分三セットだったのが、いまは5分、四、五セット」に変わったといっていた。わかる。ベテランとまではいわないが、サウナーエキスパートになると、すぐに汗をかける。短い蒸し時間でセット数を増やすほうが水風呂が気持ちいい。サウナ室でよくある我慢比べはもうどうでもよくなった。江戸の粋(いき)浪花の粋(すい)にまた一歩、近づいたのかもしれない。

8月22日 朝

台風10号が発生した。プールサイドビアガーデンの予約を控えているのでいやな予感はするが、まだ予約まで日にちがあるので、早く通過するのを願うしかない。願うといえば、青森山田の勝利を願っていたが、京都国際が逆転勝ちした。平安であれば問題ない。外大でも差支えはない。京都国際が優勝し、全国にあのハングルの校歌が響き渡るのはだけは勘弁願いたい。最も相当、全国に流れてしまったわけで、いまさらという気がしないでもないが。いまさら、といえば、いまさらながら、サウナマットを新調した。一応、百均で買ったマイマットをサウナのさいは使用しているのだけれど、迷ったすえ、少々、高めのサウナマットを購入したのだが、いまさらというのは、ばかばかしくて買う気の起こらなかった1980円のマットがテナントの閉店にともない半額になったからで、一か月間ぐらい様子を見てきた。閉店まであと三日と迫った昨日、残りみっつとなった時点で買ってしまったのだった。ついでになすの形をした風呂上り用のスリッパも買った。ダイソーの風呂上り用スリッパの活躍は一週間で終焉となる。終焉、といえば、50㏄の原付バイクの生産が終わる。排ガス規制の強化が要因らしいが、新基準では125㏄以下に制限された二輪車となるらしい。原付といえば、自転車以外の乗り物というか、機械がついた乗り物ではじめて乗ったのがパッソルだったと思う。16歳になると、速攻で原付の免許を取り、市場のバイトで貯めた資金でホンダディオを買った。メットインタイプのもので、ディオかジョグが二大勢力だった記憶がある。このディオは未成年の飲酒運転の事故により、木っ端みじんに吹き飛んだ。一発免許取り消しのち、普通免許取得が少し遅れたのだった。懐かしい思い出だ。50㏄がなくなる。変化はつきものだ。

8月21日 朝

たかばしのほうから鴨川に抜けようとして、偶発的に、崇仁地区を通りかかった。名前は知っていたし、噂は聞いていたが、実際、訪れるのはこれがはじめて。「ここが日本最大級の部落地区だったろころか」か、いまなお、そうなのか分からないが、じゃっかん、独特の雰囲気を醸し出しているような気もするが、淀川沿いの民家などはどこも似たようなものなので、鴨川沿いも都心を離れると、こんなものかもしれないなあ、というような印象。崇仁地区を抜け、鴨川沿いに北上し、四条大橋までやってくると、にぎわいは最高潮。どこもかしこも外国人だらけの景色に変わった。東九条界隈のまばらな景観はなりをひそめ、当然、行きかうひとにとは現代人なのだけれど、近代と平安時代がごちゃまぜになったような街のほとりで鴨川のせせらぎがさらさらと聞こえてくるのだった。最近、とみにラーメンたかばしの文字を大阪でも見かけるのだが、まったくの偶然とはいえ、第一旭と新福菜館の行列に出くわしたのも収穫だった。聖地巡礼ともいえる行列だが、まったく興味のない人間にはなぜ、こんなところに?という場所にできた行列だった。橋の上の行列といえば、難波のつるとんたんに観光客が並ぶ光景を思い出したが、あちらは曲がりなりにも堺筋沿い。京都駅からすぐ近くとはいえ、こんな辺鄙なところが超有名だとはあとで知って、その歴史にまたひとつ学ぶ機会を得たのだった。崇仁地区についても調べた。文字情報もおもしろいが、昨今はユーチューブで学習するほうが手っ取り早い。変わりつつある崇仁地区、差別をなくす取り組みなどの動画のコメント欄は罵詈雑言であふれている。同和利権については大国町に長く暮らしていたので、ちょっとは詳しいと思う。明日に続く。