3月22日 朝

初回の備蓄米94パーセントをJA全農が落札、というニュース。落札してコメが流通するのは理解できるが、落札したから値段が下がるという理屈がよくわからない。倍とはいいませんが、五割ほど値上がりしているという印象です、と時の首相は以前、発言していたが、昨日、スーパーで見たコメの価格は以前の三倍の値段だった。1500円で買えていた白米が4500円。10キロで9000円。送料込み10キロ2600円の激安玄米のち、だいたい3400円程度、クーポンを使って3000円弱で買っていた玄米が4000円を超え、もうそろそろコメ離れかなあと決断したころ、10キロが6000円を超えた。コストコのジャスミン米が8キロ2800円でまだあったので、ジャスミン米に切り替えた。すぐにジャスミン米も値を上げた。現状、いくらかというと、スーパーで見た新潟産コシヒカリの白米が10キロ税込み9504円。ベトナム米の白米10キロが税込み6998円。玄米しか食べないので、10キロ10000円も見えてきた。平成の米騒動のとき、誰が首相を務めていたかというと、自民が下野し、時は連立政権。細川内閣から村山内閣へと受け継がれる流れで起きた。たぶん。現社民党、当時、社会党が日本の政権を担っていた時代があるのだ。阪神大震災のとき、社会党政権だったから自衛隊の要請が遅れたと当時も今もさんざ、けなされているが、コメの重要性をいまよりはるかに認識している政府ではあった。あれから30年。あの騒動を機に開始された備蓄米制度。備蓄米表記せず販売を、とJAが卸売りに要請しているというが、この意味もよくわからない。もし備蓄米の値段が下がるのならば、備蓄米と表記せずとも価格帯で区別できるのではないか。区別がつかないというのはどういうことか。備蓄米と標準米の価格差がないということで、問題は安くなるのか変わらないのか高くなるのか。がっかり。自民が下野する日も近い。すっきり。備蓄米制度ってなんなんすか。はったり。うっかり。ぽっかり。

3月21日 朝

ワールドカップ出場が決まった。野球ばかり観ていたら、サッカーも盛り上がっていた。ボール支配率をみても押し込まれる気配は皆無だったが、なかなか点が決まらず、もやもやしていたら決まった。と思いきや、上田あやせのハンド。前半はスコアレスドロー。後半も途中までなかなか点が入らない展開。だが、終わってみれば2対0の完勝。やはり久保がすごかった。いまどき、ファンタジスタと呼ぶのかどうか知らないが、久保が仕掛けると、試合が動くというのはレアルソシエダの状況とおなじ。日本代表の10番を背負う日もそろそろかなという気がする。8大会連続8度目のワールドカップ。ワールドカップもオリンピック同様、年齢がばれる最たるイベントだが、歴史でいうと、メキシコ大会がワールドカップを知った最初だった。部屋の壁にマラドーナのポスターを貼り、左足のシュートを練習するのがあのころの子供たちの習わしだった。イタリアはロベルトバッジオのピーケーミスの印象。村上龍が世間のトレンドで、流行のエッセイでは日本代表をこれでもかあれでもかもーかそーかとけなしている。「日本がワールドカップに出場するなんて一生ないよ」「あれっておなじスポーツですか」興味のあるバカは村上ぶーのエッセイをどうぞ。次のアメリカ大会から日本中が燃え滾る。アーメリカに行こうよ、アーメリカに行こー。フーリガンという言葉も一般化したこの辺りから日本のチャントが過熱する。ごんのゴールがみたーい、みたーい、みたーい。村上龍は見たかったら静かに座って見てろ、とか言っていた。フランス大会でついに本選出場を決める。外れるのはカズ、三浦カズ、という名言も生まれた。このときは南港のパブリックビューイングに観に行った。サッカーコスプレも広がり始めた。中田ひでとしと友達になった村上龍はサッカー通で文章をかけるのは俺だけ、みたいなことを言っていた。日コリ、ドイツでゴールデンエイジが終了。南アフリカから新チーム誕生みたいな流れ。2026年はカナダ、メキシコ、米国の共同開催。題して、北米ワールドカップ。ワールドカップ100周年を迎える2030年はもっとすごい。題して、アフリカ、欧州、南米ワールドカップ。来年はwbcで幕を開け、ワールドカップで最高潮に達する。

3月20日 朝

春分の日。奈良に旅行の予定だったが、急遽、取りやめ。一日前になって途端にめんどうになった。キャンセル料がかからない前日の夜10時に決断。近場のスーパー銭湯に出かけて、夜は焼肉にでも行こう。こうやって平和なときを過ごせるのも健康のおかげ、治安の確保も重要、洗脳を解くことも肝要、というわけで、今日は地下鉄サリン事件から30年の節目の日でもある。30年前の今日、一報は朝のワイドショーだったと思う。詳細は割愛するが、阪神大震災のあった一月から四月ぐらいまで遊んで暮らしていた。遊んで暮らしていたが、勤めていた服屋さんから毎月、給料をいただいていた。いま、考えれば、いや、当初もそう思っていたはずだが、いい経営者だった。とりあえず、再建のめどが立つまで、店の片づけ、緊急の呼び出し以外は自宅待機という感じだったので、毎日、そこらじゅうをほっつき歩いていた。とはいえ、廃墟のような街で、店もほとんど営業しておらず、大阪で過ごすことも多かった。分断された西宮付近を歩いて乗り継ぎ、帰りは4時間ぐらいかかったこともある。体験したことはないが、戦後闇市や世紀末感のただよう雰囲気の色濃い春の幕開けに事件は起きたのだった。大震災がサリン事件の呼び水のような報道や考え方もあったと記憶している。あの大震災がなければ、オウムもあそこまで狂奔しなかったのではないか。されど、松本サリン事件は大震災のまえであり、翌年の大惨事は確定路線だったのかもしれない。地下鉄サリン事件の最初の一報はテロがあったとか、地下で爆発したとか、サリンとはまったく関係のない偽情報のオンパレードだった。地震から二か月。ぼこぼこの神戸で、毎日、酔っ払い、毎日、ふらつきながら、そのニュースが壮絶なオウム事件関連の総仕上げであることをのちに知るのだが、1995年前後の空気感といまではまったく異なることもおぼえておかなければならない。バブル崩壊後からインターネットが普及するこの期間は日本が狂っていた。いやな思いもいっぱいした。メディアも狂っていた。印象操作もしたい放題だった。販売員もくさっていた。店員もなめていた。ブームも偽物だった。ひどい十年のあいだに発生した印象的な事件。あれから、30年。もうそんなに馬鹿じゃないぞ。頭いいんだぞ。洗脳なんてされないぞ。今日も狭間を生きるのだった。