12月10日 朝
「また飲みに行こう」東京と大阪の違いというようなトピックスを見つけた。東京と大阪。大阪と東京。東京は串揚げ。大阪は串カツ。大阪は天かす。東京は揚げ玉。東京よりも大阪のほうが淡路島に近い。というように東京と大阪の差異を強調する文化が日本には根付いている。昨今はこれに輪をかけたような、たとえば、静岡と山梨といったライバル県へと拡張されているが、もとを正せば阪神と巨人に象徴されるニッチな不一致に端を発しているのだった。今回は東京人が大阪人の「また飲みに行こう」という社交辞令に違和感をおぼえたという話。また飲みに行こうには、もう一度、という意味しか含まれていない東京に対し、大阪では、また飲みに行こうに今度というニュアンスが含まれているため、とまどうらしい。最初、トピックスを読んだとき、何をいっているんだろうとこちらがとまどった。ああ、なるへそ。そ、いうことね。そういえば、そうだなあと思った。また飲みいこな、またごはんいきましょね、一度も飲みにもごはんにも行ったことのない相手にこういう問いかけをする。よくよく考えれば、変な感じがする。されど、もっと俯瞰でこの社会を眺めてみると、これは大阪と東京の問題ではなく、日本社会全体の不可思議な慣行にルーツがある気がしないでもなく、東京、大阪の比較は実は外国と日本に拡大解釈できるのではないか。この拡大解釈を突き詰めると、本質が見えてくる。見えてくる、で思い出したが、関西弁で見えへんが変化しためーへんという言い方があるのだが、めーへんは見えないのほかに見たくないというトーンも含んでいる。※例。もう、めーへん。ごはんは大盛りできるけどライスは大盛りできない。とごはんとライスの違いを説明していたイラン人がいたが、当然、総スカンを食らっていた。日本社会はそんなに単純ではないのだ。和を以て貴しとなすといった聖徳太子すら、現代社会では何が和なのかきっと答えが出ないはずだ。もう、めーへん。これでええんちゃうかと。
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