11月1日  早朝

11月がはじまった。大阪都構想を皮切りになにかと騒がしい月になりそうだ。騒がしいといえば、昨夜はどうだったのだろう。いつもの年とは違うハロウィン。まあハロウィンにかぎらず、すべての行事が例年とは異なった一年だが、あとは残すところ、クリスマス。ハロウィンがおわれば街はクリスマス一色となる。最近、なにげに季節をかんじさせる場所として100均の商品入れ替えがよく目につく。身近にあるからだろうけれど、春から夏へ。夏から秋へ。商品の季節感を今年はいつもよりよく観察したような気がする。暇だったからかもしれない。緊急事態宣言が4月に告げられ、ジムが閉まり、商店も閉まり、外出規制があり、疫病の閉そく感をいやというほど味わい、出かける場所もかぎられ――とか、そういう理由で100均をよく訪れたのかもしれない。最近はキャンドゥも300円商品を置きだしたし、ダイソーが公言するように安くて良い品を置く店という印象のほうがこれからは100円の価値を上回るのかもしれない。そういう意味では回転ずしも同様。スシローももはや100円ではタコもいただけない。定番だった鯛も無理。いずれマグロ、はまち、サーモン等も値上げするかもしれない。それならそれでいいともおもうし、安ければ安いほどいいとおもう自分もいるし、とどのつまり、使い勝手は自分で決めればいいという結論にいつも落ち着く。自分で決める。決断する。人生はその連続。このような認識はおそらく社会人スタート時から薄ぼんやりと持っていた気はする。住む場所を選ぶのも職業を選択するのも自分。自分を着飾るのも自分。付き合うひとも自分でセレクトするといったように徐々に決断力が鍛えられていった。ただ、言葉として、はっきりと耳にしたのは映画ユーガットメールのワンシーンだった。スターバックスでコーヒーを注文するシーン。「人生は決断の連続だ」はっ、とした記憶がある。朝食の用意も決断のたまものであるし、生きざまという壮大な道も決断によって開かれる。もっとも嫌いな言葉をひとつ挙げるとするならば「優柔不断」というある時期には耳障りのよかった四文字熟語。この言葉を心底、嫌っている。ただし、言っておく。決断力は判断力と比例するものではない。たとえ間違っていようが決断は決断として尊重してやる。問題はその決断は信念によって達成されなければならないという点だ。信念で大阪都を否定するならば、その決断は重要な決断といえるだろう。ただ、おまえは地獄に落ちる。地獄に落ちる決断を取るか、蹴るか。希望の光を灯す決断に手を伸ばすか、撥ねるか。考えて、考えて、考えて、決断する。その一票は未来の一票だ。その決断によって次世代の命運が決まる。人生は決断の連続だ。

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