3月14日 朝
ひさしぶりにモーサテのパックンの目を観た。今朝のテーマはディーイーアイ。ダイバーシティー、エクイティ、インクルージョンの頭文字をとった造語。日本語に直すと、多様性、公平性、包括性ということになる。米国民主党政権下で進めていた取り組みだが、トランプ大統領がこの考え方を見直すという。理由は昨今のポリコレの弊害を省みるまでもなく、行き過ぎてしまった部分があるから。多様性も公平性も包括性もそんなことを言い出せば十人十色なわけで、誰に寄り添うのかによってその視点は大きくぶれてしまう。昨今、LGBTQを称して、オカマというメディアはない。メディアどころか巷でも声高に叫べば袋叩きに遭うご時世だ。ゲイのひとに寄り添えば、少子化問題や芸能人の妊娠といった報告はタブーになる時代がくるかもしれないが、そうすると、一方の多様性、公平性、包括性のメッセージに抵触するはずで、一方が声を上げると、一方の反感を買うといった事態が起きかねない。じゃあ、どうすんねん、と。行き過ぎた主張は許さないという主張に行き着いてしまった。行き過ぎた主張とは何か。たとえば、米国ではメリークリスマスという発言もタブー化されつつある。クリスマスはキリストのミサを意味する。メリークリスマスはキリストの誕生を祝う言葉であるから、その他宗教の差別に当たる。じゃあ、なんというか。ハッピーホリデイズが正しい祝い方なのだ、と。誰かに寄り添えば、誰かが傷つく。日本に置き換えると、行き過ぎたコンプライアンスの浸透という昨今のスタンスが近いのかもしれない。過去の不祥事を掘り起こして、芸能活動の自粛。挙句、引退という発表も以前、目にしたばかりだ。ワイドナショーであつし氏がいっていた。過去、喫煙で停学を食らったことがある。それを掘り起こされて、活動自粛は受け入れがたい、と。そら、そうだろうが、いずれ、中学時代の万引きが原因で芸能界追放という時代がくるかもしれない。多様なルーツ、共生、共存、受容、異文化交流を掲げるどこかの新聞をずっと胡散臭いと思ってきた。大切なのはやはり選挙に行くことだな。