3月9日 朝

毎日、毎日、ぼくらはてっぱんの、上で焼かれて、いやになっちゃうよ、という歌詞ではじまる泳げたいやきくん。これって労働唱歌だったのだなあ。そう思いなおして、改めて歌詞を眺めると、労働者の悲哀をものの見事に表現していることに気づく。それで、思い出したのがヤプーズの労働慰安唱歌。こちらは、働けども、働けど、と、はじまる。まさに宮沢賢治のわが暮らし楽にならず、じっと手を見るを現代歌唱化した名曲。ブルジョワジーとプロレタリアート。バブル期を経験した日本人にとって、このようなコントラストが日本に、しかも令和のこの時代にはびこるなど思いもしなかっただろう。現在、70代から80代の団塊を含む世代。70年代から80年代にかけて青春を送った世代。言い換えれば、泳げたいやきくん世代と呼べなくもない世代。泳げたいやきくん世代の労働唱歌と現代の労働唱歌には相当の開きがある。現代の労働唱歌の代表をブリンバンバンボンと勝手に想定する。泳げたいやきくん世代vsブリンバンバンボン世代。こういった構造がかつて話題になったなあと思い返すと、それはサザエさんを取り巻く昭和の労働環境と平成の労働環境の比較なのだった。昭和の労働者は恵まれていたという主張の根拠。給料の多さ、8時5時で帰れる、終身雇用、年功序列、のんびりした時代という、根拠というよりはポジティブなイメージを持つ若者の推論に基づいている。逆に昭和の労働者はいまより過酷だったという主張の根拠は今のようにコンプライアンスは確立していないし、過労、パワハラは当たり前というネガティブな体験による、どちらかというと年配者の意見が大半を占めていた気がする。論争はどう着地したのか。知る由もない。というか、隣の芝生が青く見えるように論争に着地点はないのかもしれない。ただ、ひとつ理解に及んだことがある。労働の対価が金銭だった時代から、労働と収入を切り離す世代がじわじわ育ちはじめたこと。こういったひとは毎日、毎日、てっぱんの上で焼かれてもいやにならない。なっちゃわない。なっちゃはないのだ。金はあとからついてくる、といわれて育った世代にない発想。z世代が日本を救うのか。真逆の価値観が横行する気配を感じなくもない。