2月3日 朝

まっちゃんに対して、吉本のオービーが苦言、みたいな記事があり、誰だろうと読み進めると、案の定、木村元常務だった。この人物に関しては嫌悪感しかない。いうことがいちいち癇に障る。世間ずれかもしれないし、時代ずれかもしれないが、カツラがずれていることだけは確かだ。松本くんではなく、松本さんと呼べ。まずはそこからだ。リージャパンを推し進めたときも「世間はたった一人のカリスマを求めていない。グループで輝く時代だ」まるで小泉改革のときの村上龍そっくりの口ぶりだったが、そんなことはない。世間はいつだってカリスマを欲している。ただ、カリスマの基準が厳しくなっただけなのだ。エーケービーと松本人志を同一視する時点でこのおっさんは禿げているのだ。世界は大谷翔平に夢中なのだよ、木村くん。とはいえ、まっちゃんを嫌う一方の世間の心理も理解できる。おもしろければ勝ちの潮流で頂点に上り詰めたものの、世間、特に性格の悪い女性陣、もっといえば、金があって暇があって行動力のある鬼女に反感を買う発言は封印されたわけでもなかった。今頃、掘り起こすのか、という遡及法に似た思いと、追軍売春婦問題に見られる歴史修正主義がコンプライアンスな時代に力を借りて、まっちゃん叩きに転じたのだった。冷静に考えれば、男がいて、女がいて、それぞれの思惑があって、そこを深堀してから事実に照らし合わせるべきなのだが、さらにいえば、証言と証拠には決定的な違いがあり、昔の話をする場合、基本的には証言が重視される傾向がある。そう、コンサバの大好きな悪魔の証明、または鬼の証明の出番となる。ないことを証明することはできない。なぜなら、森羅万象すべてを知ることはできないからだ。あったとするひとが、あったことを証明するしかない。そういう観点からすると、今回は未必の故意的に物事が進んでいる印象がある。まるで、追軍売春婦問題そっくりの構造が浮かび上がる。ともすれば、まっちゃんの敵は文春ではなく、いまや訴え出た女性でもない。もっと強大なものに差し変わっていく可能性がある。まっちゃんの弁護団からすれば、すでに差し変わっていると見る向きが正解だろう。女性自身、日刊ゲンダイに引き続き、そろそろサンデー毎日、AERAあたりがスタンバイしているのかもしれない。