4月28日 朝
明日からゴールデンウィーク。今年は最大10連休ということで、長らくコロナのために旅行を控えていたひとたちもここぞとばかり久しぶりに出かける予定、というひとが多いとも聞く。キャンピングカーのレンタルも好調。新幹線や航空機の切符も売れ行き快調。週間天気予報もまあまずまず。気温も上々といった具合。どこもかしこもめちゃ混み、ごった返す人込み、溢れかえった観光地、高速道路は渋滞、行きも帰りも大渋滞、静まり返る住宅地、海外旅行に湯煙めぐり、ビーチでごろごろ、こんがり焼けてがんになれ。とまあ、さまざまなシチュエーションが脳裏に浮かぶ。かようなことはここ三年ほどなかったわけだが、今年はどうやらそれが戻ってきそう。そこで思い浮かぶのは人々のいらいらについて。人が群れると犯罪率は高まる。コロナ禍によってニューヨークでは犯罪が減った。人との接触が少なくなったからだ。ぎちぎちの車内、じりとも進まぬ交通渋滞。人間とは想像と誤解の産物である、といったのは誰だったかというと、自分であって、いま思いついただけだが、物事の見え方というものは穿ってみると、勘違いもするし、なめてかかると、ひん曲がっても見える。本質はどこにあるのか。一昔前のいちゃもんに結構あった構図。電車内で高級バッグを抱える小娘を見て、どうせ男に貢いでもらったんだろうと不愉快至極なジジイババアという構図。おばあちゃんの形見を大切に活用しているだけかもしれないではないか。電車内でいきがってサングラスをかける茶髪の若い兄ちゃんに不快感を示すおばはんという構図。目の病気かもしれないではないか。そういった構図は想像力の進化によってとっくの昔にほろんだと思っていた。そうではなかった。21世紀なのに前時代的な戦争をはじめた、と皆、一様に驚愕の想いで現実を眺めているが、そうではなかったのだ。今朝は今朝で「千羽鶴カルチャーで空回り」という記事を見つけた。もらう側の論理とあげる側の論理。日本ではあげる側の論理が強いと記事は伝える。軒下を貸したら母屋を乗っ取られたという事例もまさにこういった文化が生み出した欠陥かもしれない。ほどこしたら感謝されなければならない、という思いが強すぎると、両者の気持ちがぶつかり、複雑な感情が芽生える。デニーロの映画エブリバディファインのなかにこんなシーンがあった。デニーロが親切心からホームレスの少年に金を与える。感謝の意を示さないことから、どうした?感謝もできないのか、と与える側の論理で少年を説き伏せる。デニーロ演じる中年の男性はぼこぼこにされ、全財産を奪われる。挙句、命を守る常備薬を目の前でぐちゃぐちゃに踏みにじられる。なんて非道な少年なんだ、と思うか、命が助かっただけまし、とおもうかで意見はわかれる。ゴールデンウィークがはじまる。人々の接触がはじまる。