4月19日 朝

ウクライナに千羽鶴を送る日本人という話題が世間を騒がせている。賛否両論あるそうだが、9割は非難の声で、たしかにこれは自己満足の範疇を超えている。なんとかシスターズとかいう超絶ブス三人組のウクライナ国歌斉唱のほうがまだマシだ。シリアが激戦を極めていたころ、横浜の主婦が憲法9条を訴える活動とか称し、ノーベル平和賞とか欲し、揚句、ノーベル平和賞に完璧無視されていたのには笑ったが、こういう輩は単なるあほなので、あほは静かにあほなまま、あほのように横浜で暮らしていればいい。支援がしたければ、シリアに飛びなさい。横浜で平和を訴えるのではなく、シリア国内でボランティア活動をしなさい。怖いのならば静かに募金でもしてなさい。阪神大震災のとき、使いかけのテレフォンカードを買い取ってくれと議員に送り付ける自称被災民がいたが、これと似た手法を千羽鶴を送り付けた団体に試みてはどうだろう。きっと迷惑だろうが、さほど気分を害する事案ではないことにも気づくはずだ。この気づきが相手の立場を慮る気づきに結びつく。つまり、想像力の広がりにつながっていくわけで、家族や友人をなくしたひとへの配慮へと想像力が及ぶ。翻って、この行為を非難している人間に対しても、ひとつ関心が生まれた。非難は純粋な怒りからだろうが、増幅と増長にはハイデガーの世人という概念が深くかかわっている気がするからだ。なぜ、いま、ハイデガー、というと、10分で名著がたまたま存在と時間を取り上げていて、たまたまそれを見ていたからだ。筒井康隆氏の著書を通じ、ハイデガーを知ったが、いつか読もうと思い、放置している本の一冊が存在と時間であり、今回、本当にたまたまなのだけれど、番組のなかでひじょうにわかりやすく解説してくれている。さらに世人という概念を紐解くと、そこに見えてくるのは昨今のSNS文化の潮流であって、ナチスのアドルフアイヒマンになる日があなたにも私にもやってくるかもしれない。「自らを世人に引き渡してしまった現存在は自然に世人が考えるように考え行動する。その影響は日常の隅々にまで及ぶ」存在と時間が冷静さを取り戻すきっかけとなりそうだ。