4月21日 朝

ようやくマクドナルドのベーコンポテトパイを買うことができた。酒のあてにこらええわ、と思ったのは何年もまえのことで、なんとなく味をおぼえていた。このたび、復活か復刻か知らないが、販売されたのを機にこれで一杯やったろうと目論んでいたら、一週間足らずはすぐに過ぎさってしまい、ひさしぶりに食べたが、気に入った。しばらくブームが続くかもしれない。そんな平和なさなかにあって、世界は相変わらず揺れ動き続け、昨夜、g20第二回会議、財務省、中央銀行総裁会議がワシントンで開幕した。ロシアの出席を認めるなら参加しないとさんざほざいていた米国が結句、前言を翻し、イエレン氏が出席。軌道修正の思惑としてはロシアへの直接非難、西側諸国の団結を指し示すことを暗に意味しているのだろう。バリ島で開催される首脳会議はまだ先の話だが、思い返せば三年前、大阪で行われたg20がなつかしい。トランプ大統領、プーチン大統領に挟まれる形で宴席に着く安倍首相。あの神々しい光景から世界は一転。トランプが退場し、首相が変わり、プーチンは戦争を起こした。隣国ロシア、同盟国アメリカ。ふたつの軍事大国に翻弄される経済大国日本。あの当時、世界に救いの光を求めたのは主にアジア諸国だった。その年の終わりから新型コロナが世界を覆い、パンデミックの終息をあざ笑うように今度はウクライナ戦争が世界経済をじわじわと追い詰める。難民は500万人を超え、小麦、ガソリンの値上げに暴動が起きる国まで出てきた。混沌と混乱に乗じ、北コリアもまた舌なめずりしながら情勢を見極め新型ミサイルの成功を誇示する。米国の核の傘もいまや安全保障を担保するものではなくなった。米国本土に届く弾道ミサイルを北コリアは手に入れてしまったからだ。次から次へステージが移り変わる。たとえば、北の弾道ミサイルが日本海側の原発を攻撃する。果たして米国は核攻撃も辞さない覚悟で日本のために反撃するか。答えはノーだ。次元が変わってしまった。北コリアの核攻撃、あるいは原発破壊はウクライナに撃ち込まれる戦術核とおなじ意味を持ってしまった。移り行く世界地図。移り変わる世界情勢。70年前と違う現実にいつまで目を背け続けるのか。おい、そこの自称リベラル。

4月20日 朝

造幣局の桜の通り抜けに行ってきた。最終日ということで日当たりのいい場所の桜はもうほとんど葉桜になっていたが、それでも絢爛豪華とはまさにこれだ、と思わせる桜の魅力はまだ健在だった。今年の花に選ばれたのは福禄寿。たぶん二本か三本あった。色の濃い妖艶な桜で見事だったが、葉っぱが目立った。新品種の桜、伊予菊桜と暁鐘も見た。写真にも納めたが、実に名残桜らしい貧相さで、特に暁鐘を見たとき、思わず、うす、漢字で書くと、薄、といってしまった。桜というより柳みたいだった。花が満開で美しかったのは鎌足桜、松月、そして、定番の関山だった。ぜひ夜桜で見てみたいとおもった。満開の桜には写真撮影の人だかりもできているのだが、余裕で混ざることができた。全体に快適だった。気温のせいもあったのだろうが、なんでこんなに気持ちいいのか、なぜゆえここまですがすがしいのか、最初のうちは舞い上がっていることもあり、よくわからなかったが、途中で、例年に比べ、密集率が圧倒的に低いことに気づいた。人間が少ないのだ。いつもなら後ろから押されるような感覚があるのだけれど、自分のペースでゆっくりと見て回れるゆとりがあった。気温は人間が最も快適と感じる22度か23度ぐらい。外国人観光客のいない、さらに外国語のアナウンスのない美しい桜の通り道。束の間の蠱惑だったが、充分過ぎるほど満足してしまった。桜の通り抜けは帰ってきてからもまだ美しい。もらってきたガイドを眺め、余韻を楽しむのだ。妹背もきれいだったな、とか、朱雀もよかった、とか、ソメイヨシノもあったのか。たぶん葉桜で気づかなかったのだろう。その親である大島桜もあった。ちょっと検索してみよう。この葉が桜餅に使われるからモチザクラとも呼ばれる、か。なるほどな。勉強になるなあ。とか。そういえば、いつもは句を詠むスペースが用意されているのだが。今年はなかった。毎年、何かしら記し、投票箱に突っ込んでいるので少しさみしい。ここで詠んでもたろう。「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」解説しよう。「桜の花がまたたくまに色あせてしまった。春の長雨を眺め、ぼんやりと物思いにふけっているうちに自分も年をとり、容姿もおとろえていくのか。若いころはあれほど美しい、美しいといわれていたのに。むなしい」造幣局の桜の通り抜けが終わると、大阪の桜の季節も終わる。あとは札幌円山公園の花見ジンギスカンをテレビで観るぐらいだろうか。桜が終わった。藤もきれいだったな。ハナミズキは今も満開。来年もまた咲く。何歳になってもまた咲けばいいじゃない。小野小町の歌でした。

4月19日 朝

ウクライナに千羽鶴を送る日本人という話題が世間を騒がせている。賛否両論あるそうだが、9割は非難の声で、たしかにこれは自己満足の範疇を超えている。なんとかシスターズとかいう超絶ブス三人組のウクライナ国歌斉唱のほうがまだマシだ。シリアが激戦を極めていたころ、横浜の主婦が憲法9条を訴える活動とか称し、ノーベル平和賞とか欲し、揚句、ノーベル平和賞に完璧無視されていたのには笑ったが、こういう輩は単なるあほなので、あほは静かにあほなまま、あほのように横浜で暮らしていればいい。支援がしたければ、シリアに飛びなさい。横浜で平和を訴えるのではなく、シリア国内でボランティア活動をしなさい。怖いのならば静かに募金でもしてなさい。阪神大震災のとき、使いかけのテレフォンカードを買い取ってくれと議員に送り付ける自称被災民がいたが、これと似た手法を千羽鶴を送り付けた団体に試みてはどうだろう。きっと迷惑だろうが、さほど気分を害する事案ではないことにも気づくはずだ。この気づきが相手の立場を慮る気づきに結びつく。つまり、想像力の広がりにつながっていくわけで、家族や友人をなくしたひとへの配慮へと想像力が及ぶ。翻って、この行為を非難している人間に対しても、ひとつ関心が生まれた。非難は純粋な怒りからだろうが、増幅と増長にはハイデガーの世人という概念が深くかかわっている気がするからだ。なぜ、いま、ハイデガー、というと、10分で名著がたまたま存在と時間を取り上げていて、たまたまそれを見ていたからだ。筒井康隆氏の著書を通じ、ハイデガーを知ったが、いつか読もうと思い、放置している本の一冊が存在と時間であり、今回、本当にたまたまなのだけれど、番組のなかでひじょうにわかりやすく解説してくれている。さらに世人という概念を紐解くと、そこに見えてくるのは昨今のSNS文化の潮流であって、ナチスのアドルフアイヒマンになる日があなたにも私にもやってくるかもしれない。「自らを世人に引き渡してしまった現存在は自然に世人が考えるように考え行動する。その影響は日常の隅々にまで及ぶ」存在と時間が冷静さを取り戻すきっかけとなりそうだ。