4月30日 朝

4月も今日で終わり。4月が終わると、5月がはじまる。今朝はこんなニュースから。DJSODAというコリアン女性がニューヨーク発ロサンゼルス行きアメリカン航空機で嫌がらせを受けたと告白し、米メディアで話題。なんのこっちゃと記事を見ていくと、要は氏の履いていたスウェットパンツにファックユーと書かれていたのが問題視されたということ。これに対し氏は「ビジネスクラスでウェルカムドリンクを飲みながら出発を待っていたら、突然、現れたスタッフに荷物をまとめて飛行機を降りるよう求められた」「何か月にもわたる北米ツアー中も同じパンツを履いて移動したが、問題になったことは一度もない」「最終的にスウェットパンツを裏返しで履き、1時間遅れで再び搭乗できた。不当な扱い、ハラスメントを受けた」「結局、スウェットパンツを脱いだところ、スタッフにもっと早く脱げただろうにと皮肉を言われた」と話している。これに対し、記事を書いているジャーナリストはこちらも女性で、氏に同情的かというと、まったくそうではない。むしろ、氏の無神経、無頓着、反抗的な態度をたしなめている。飛行機でマスクをつけない乗客というのがいっとき問題化したが、それに似ているかというと、この問題はまるで異なる。ファックユーの暗喩をFワードというらしいが、Fワードが流れると、テレビでは必ずピー音で消されるぐらい厳しく規制されているというくだりから思い出すのは原爆Tシャツを着たコリアングループのことだ。BTSとかいうバカティーシャツの略とおもわれるブサイク男性5人組かなんかで、このうちのひとりが原爆Tシャツをファッション感覚で着ていたという。コリアンだからなのか、このアホの思想なのか、それともこれがコリアンなのか。ファックユーパンツと原爆Tシャツに共通するねじの外れた頭の構造。なのに、旭日旗に腹を立てる頭の構造。普段、自国政府の発表をなんら信じていないのに、日本の悪行を論うときだけはかたくなに信じる頭の構造。ファックユーと原爆と旭日旗の違いがわからない頭の構造。飛行機から降ろされた女性は謝罪すべきだった。不当な扱い、と腹を立てるのはいっとき当然かもしれないが、時間が経てば、己の愚行に顔を赤らめるはずだ。反省して教訓にすることだ。

4月29日 朝

ゴールデンウィークに入ってしまいました。最長で10日間。最短でなし。そんな格差の激しいゴールデンウィークにあって、いつも思い浮かべる歌がある。「五月晴れのゴールデンウィークは 海外旅行に湯煙めぐり 巷は愛の安売り 入れたり出したりスパーク だけどおれの気分は台無しさ 電話を取ればいたずら電話で ポストを見れば不幸の手紙さ ひとに恨みを買うような覚えはまったくないけど まったく背筋が寒くなる テレビのなかにはハッピー連中 誰かおれの不安を消してくれ ホテルにペンション別荘 こんがり焼けてがんになれ お前らみんな食い物さ」このような歌詞で展開される名曲、ノーキディング。日本語でいうところの冗談じぇねえ。かような想いを今年も抱えることになりそうで、だいたい土日祝日というものが勤め人を辞めて以降、本来、あまり好きではなく、外出はもっぱら平日であることが多い。土日祝日も出かけるが、人の移動に比して、どこも猥雑混沌無秩序の大宴会が繰り広げられており、特にエキスポシティやイオンモールといった大型施設では施設内を巡って楽しむ余裕など見る影もない。ゴールデンウィークという長期休暇ゆえに皆が皆、長距離移動をしているかというと、そんなこともなく、ただ単に長い休暇を近場のレジャーで済ませる家族連れも多い。これが年末年始やお盆といった時節とは異なるゴールデンウィーク独特の感傷で、冒頭の格差を感じざるを得ない近場の狂騒なのだった。思い起こせば、一回目の緊急事態宣言が4月のはじめに発出され、その年のゴールデンウィークはなきに等しいものだった。静かな5月だった。いつもならゴールデンウィーク明けは五月病だとか燃え尽き症候群だとか正常な人間ならば精神に異常をきたす時期なのだが、その年はあまり聞かれなかった。正常ではないと自他共に認める自分の場合、そのような症状が出た瞬間、責任感とか羞恥心とか理性とか社会性とか帰属意識とか打算とか良心とか義憤とか正義感とか道徳心とか瞬時に脱ぎ捨ててしまい、義理も人情も即座に踏みにじってしまうが、あの時期を境に正常ではないとされてきたこのような価値観が正常になりつつある雰囲気が漂いはじめた。借金でもなんでもしなさい、とにかく今を乗り切りなさい、といった危機意識からくる正常性のそれは転換だった。今年はまた正常性が揺れ動く。まるでシーソーとか天秤のようだ。人出が多くなり、世間が騒がしくなるこの一週間、読書に励もうと思う。プライムリーディングに町田康氏の未読本を見つけたので、とりあえずこれを読もう。

4月28日 朝

明日からゴールデンウィーク。今年は最大10連休ということで、長らくコロナのために旅行を控えていたひとたちもここぞとばかり久しぶりに出かける予定、というひとが多いとも聞く。キャンピングカーのレンタルも好調。新幹線や航空機の切符も売れ行き快調。週間天気予報もまあまずまず。気温も上々といった具合。どこもかしこもめちゃ混み、ごった返す人込み、溢れかえった観光地、高速道路は渋滞、行きも帰りも大渋滞、静まり返る住宅地、海外旅行に湯煙めぐり、ビーチでごろごろ、こんがり焼けてがんになれ。とまあ、さまざまなシチュエーションが脳裏に浮かぶ。かようなことはここ三年ほどなかったわけだが、今年はどうやらそれが戻ってきそう。そこで思い浮かぶのは人々のいらいらについて。人が群れると犯罪率は高まる。コロナ禍によってニューヨークでは犯罪が減った。人との接触が少なくなったからだ。ぎちぎちの車内、じりとも進まぬ交通渋滞。人間とは想像と誤解の産物である、といったのは誰だったかというと、自分であって、いま思いついただけだが、物事の見え方というものは穿ってみると、勘違いもするし、なめてかかると、ひん曲がっても見える。本質はどこにあるのか。一昔前のいちゃもんに結構あった構図。電車内で高級バッグを抱える小娘を見て、どうせ男に貢いでもらったんだろうと不愉快至極なジジイババアという構図。おばあちゃんの形見を大切に活用しているだけかもしれないではないか。電車内でいきがってサングラスをかける茶髪の若い兄ちゃんに不快感を示すおばはんという構図。目の病気かもしれないではないか。そういった構図は想像力の進化によってとっくの昔にほろんだと思っていた。そうではなかった。21世紀なのに前時代的な戦争をはじめた、と皆、一様に驚愕の想いで現実を眺めているが、そうではなかったのだ。今朝は今朝で「千羽鶴カルチャーで空回り」という記事を見つけた。もらう側の論理とあげる側の論理。日本ではあげる側の論理が強いと記事は伝える。軒下を貸したら母屋を乗っ取られたという事例もまさにこういった文化が生み出した欠陥かもしれない。ほどこしたら感謝されなければならない、という思いが強すぎると、両者の気持ちがぶつかり、複雑な感情が芽生える。デニーロの映画エブリバディファインのなかにこんなシーンがあった。デニーロが親切心からホームレスの少年に金を与える。感謝の意を示さないことから、どうした?感謝もできないのか、と与える側の論理で少年を説き伏せる。デニーロ演じる中年の男性はぼこぼこにされ、全財産を奪われる。挙句、命を守る常備薬を目の前でぐちゃぐちゃに踏みにじられる。なんて非道な少年なんだ、と思うか、命が助かっただけまし、とおもうかで意見はわかれる。ゴールデンウィークがはじまる。人々の接触がはじまる。