3月31日 朝

無事、三回目のワクチン接種が終わり、熱もなく、吐き気もなく、怠くもなく、しかし、腕が上がらない。正確に記すと、はーい、と手を挙げると、先生から「ちゃんと手を挙げなさい」と注意されてもそこまでは挙がらないレベル。も、ちょっと話すと、宣誓、われわれ選手一同、は無理で、宣誓、神に誓って真実を述べます、ぐらいしか無理。それも痛みを伴う。痛みに耐えてよくがんばったとあとで思う日がくるのだろうか。痛みに耐えてよく告発した、とか、痛みに耐えてよく我慢した、とか、痛みというものにはやはり多少なりとも傷がつきもので、そうした観点からも少しく気にはなっていた木下ほうか氏を取り巻く事の顛末を知りたく思い、本屋で週刊文春を立ち読みした。一読して感じた印象は、なんだかなあ、というものだった。時期でいうと約10年前。立場を利用した悪質な事例と読み取れるいっぽうで、女性側の証言が事実であるとすれば、はっきりいって女性側の資質の問題のほうがはるかに大きい。これで訴えられたとしても刑事事件化するのはまるで無理であるし、パワハラと呼ぶにしても心もとない。行為に応じた側に狡猾な打算があったのは証言が事実であれば、疑いようがないし、なぜ、10年も経ったいま、わざわざ名乗り出て、告発に至ったか。2人で居酒屋で飲んだ帰りに木下氏の自宅に連れ込まれ、強引に関係を迫られたという女優のx子さんに至っては、この手のエピソードを持つ芸人さんや俳優さんは数多くいるであろうし、こういった生々しい証言をされたら芸能人のイメージなどころっと変わるご時世でもあり、一部を否定しつつも、当人同士しか知りようのない一夜を概ね事実と素直に認め謝罪した木下氏に男気を見るのは果たして多くの男性には共感を得る見方ではないだろうか。さらに無期限の活動休止を発表するという幕の引き方だ。これ以上もこれ以下も、もう、ない。ソロキャンプで性被害に遭ったという女性を取り巻く論争も最近、見たが、やはり、持った感想は、なんだかなあ、だった。ウクライナの空は赤く燃えているが、日本の空は白く曇っている。他人の痛みを推し量るなと力説するバカがいたが、他人の痛みなど推し量るに決まっとるやろボケが、と言い返したい。もし、100万という余剰金があれば、惜しまず分け与えよう。その際、悲惨度によって、渡す額は変わる。しょせん、他人の痛みなのだから。
posted by せつな at 07:32Comment(0)日記

3月30日 朝

三回目のワクチンを接種する日がやってきた。タンクトップにはまだ早すぎるが、それに準ずる恰好で出かけようと思う。前回はファイザー製だったが、今回はモデルナ。まったく気にしていないし、むしろ、異なるワクチンで無敵になりそうな気がする。あくまで気がするだけだが。さて、桜がいたるところで、満開に近づいてきた。場所によっては満開かもしれない。日本人は桜を見ると血が騒ぐ遺伝子がDNAに刻まれている。桜ほど日本と日本人を象徴する花はない。ぱっと咲き、ぱっと散る。散ったあとは緑がまぶしく太陽に染まる。桜の咲く三月といえば、東京大空襲に引き続き、大阪大空襲が行われ、大阪市街地が焼け野原になった月でもある。寝静まった深夜、一般家屋を狙った無差別低空爆撃による戦争犯罪を鬼畜米国は決行した。先のゼレンスキー大統領による日本での演説は実に無難なものであった。米国ではパールハーバーに触れたくせに日本では何十万人もの民間人を犠牲にした無差別大空襲も核兵器使用にも言及しなかった。避難経路を絶ったうえでのナパーム弾投下。当時、米国がやったことは今回のロシアの卑劣さをより上回る残虐かつ凶悪な戦争犯罪だ。戦争が長引けば長引くほど、最近はロシアもウクライナもしょせん露助という印象しか持たないが、それにしてもゼレンスキー大統領の演説には失望した。そんな三月の月にあって、当時、燃え尽きた大阪市内に桜は咲いたのだろうか、とふと思いをはせてみたくなった。大阪大空襲の資料としてはいくつか重要な文献が残っており、さらにその体験を生かした小説のようなものも存在する。ほとんどの手記は空襲のその瞬間を記したものだが、当然にそんな絶望のさなか、桜について暗示しているものは見当たらず、桜を見る余裕などまさかあるはずもなく、もし咲いたとしても美しさに見惚れることはよもやなかっただろう。梶井基次郎のいうように実際に桜の下には犠牲者の御霊が眠っていたのだ。目に映るものは犠牲者の名残しかなかったに違いない。近くに城北公園というかなり大型の桜のめっかがあり、この季節になると、近隣の大学生や家族連れがバーベキューをして、花見を楽しむ。桜が終わると、蓮池が有名な場所でも知られる。第三次大阪大空襲の際、四国から大阪の繊維工場に勤労動員で来ていた女子学生、および近隣の住民がこの公園に避難していた。米軍の空からの機銃掃射により、その場での犠牲者の数は数百人とも千人ともいわれている。今年も桜が咲いた。桜の花びらを見つめることは日本人の魂を見直すことでもある。咲いては散って、緑に変わる。城北公園を過ぎると、そろそろ桜ノ宮公園の並木が見えてきて、そこは大阪で最も有名な花見スポットとなる。桜に関する手記のようなものは見当たらないが、個人的にはアパッチ族を描いた日本三文オペラに空襲後のあのあたりの空気をありありと感じることができる。桜を眺めて焼酎を飲み、焼き肉を食べているような雰囲気がある。
posted by せつな at 07:44Comment(0)日記

3月29日 朝

鳥貴族が税込み350円に値上げする。税抜きでは319円。2017年10月1日に税抜き280円で知られた税込み302円の鳥貴族が税抜き298円に値上げして税込み321円になったときの理由も原材料費と人件費の高騰が理由だったが、今回はそれに加え、水道光熱費、資材などのコスト上昇が見込まれるためとあり、現状、消費税10パーセントの税抜き298円の税込327円から税抜き319円の税込350円に大幅値上げを試みる。ややこしい。というか、ややこしかった計算が一律350円になる、と覚えておけばいいのかもしれないが、最近、鳥貴族に行ったのはマンボウ中の一か月かそこら前ぐらいで、飛沫感染予防のビニールシートの改善が見られず、これはいただけない。演出がいただけない。料理も酒もいただけないとしばらく敬遠するうち、すっかり足が遠のいた。そうこうするうち、来月28日から件の上昇見込みを理由に値上げに踏み切るというニュースに接した次第で、こうなると、遠のいていた足は正直、もう元に戻らないというか、350円でもメガ金麦は安いとおもうが、割安感はさほどなくなり、あの極端に狭い席を考慮すると、もはやアドバンテージもなく、利用する機会は極端に減ると思う。飛沫感染ビニールは以前は前だけではなく、横にもあった。それが前はそのままで横を取り払うという店員側の利便性だけを考えたやり方は基本的に間違っている。横の他人との距離こそを考えるべきで、そうした無配慮とただでさえ狭い店内の息苦しさを増長するビニール幕のうっとうしさは本来、現実逃避の場である自由な雰囲気にそぐわない。とりわけ、許せないのは運任せという側面が一にも二にも隣席次第という狭いテーブル席あるあるで、大声、下品な会話、あるいは子供連れによって、呑みの席が台無しになるという気運を飲む前から警戒しなければならない点がことさらにうっとうしい。隣席との間にあるビニールシートはコロナ禍による僥倖の賜物であったにもかかわらず、それを取り払い、前面の話し相手のみをさえぎるとは自由を謳歌すべき酒場で刑務所の面会ごっこをしているようで飲み屋にして呑み屋にあらずでここは堺か川越かと声を大にしていいたい。それを補うべき価格の優位性をコスト上昇による値上げと称し、客へ転嫁するとははなはだ立腹、憤懣やるかたなしといったところで、レモンもキャベツもパセリも付かないトリキのから揚げに350円を払うことも、あの狭いテーブル席に着くことも、重たいメガジョッキを掲げることも、予約することも、隣席にドキドキすることも、もうないかもしれない。とはいえ、値上げラッシュは鳥貴族にかぎらず、今後、続々と繰り広げられるに違いなく、明々後日から四月と新年度を笑って迎える余裕がないのもまた実状で、トリキよお前もかといった悲痛の叫びはいたるところで聴かれるのかもしれなかった。
posted by せつな at 05:19Comment(0)日記