2月28日 朝

酒に酔ってではなく、明らかに食べ過ぎで千鳥足。ふらふらしながら帰り着くと、もうおなかいっぱいなので、ほかに何するでもなく、動くこともままならず、着替える。歯を磨く。夢のなかへ。最近、こんな感じでよく食べる日がある。じゃあ、太ってきたかというと、そうでもない。食欲がモチベーションとなって、そのぶん、翌日は身体を動かすので結句、エネルギーが自転車操業となり体形は維持される。こういったサイクルを自分は理想形と位置付けている。食欲を満たした翌日は活力が身体中にみなぎっているような奇妙な全能感に満たされる。これに睡眠の質が加われば全能感はさらに加速する。午前中のジム通いに午後からのショッピングで気づけば歩数が1万歩を超える日もこれで数週間連続となる。8000歩に到達するとスマートウォッチがぶるぶると震え、画面にはクラッカーが弾けている。だいたいそれが午後2時から3時の間に訪れる。その日の買い物を終えると、あとはもう帰って晩酌をするだけなのだが、その晩酌も平日はできるだけ焼酎だけにとどめる。あまりに日和のよい日は缶ビール一本ぐらい飲むが、それにとどめる。日曜だけは制約をつけず、その日に飲みたい酒を好きなだけ飲む。昨夜はワインを飲んだ。通常、満腹感は悪とされていて、よく腹8分目とか、空腹こそ長生きの秘訣とか、テロメアとか、サーチュイン遺伝子とか聞くが、満腹感も紐解けば、その食事内容にとどめを刺す。昨日の満腹はサラダバーの満腹なのであり、決してラーメン大盛りの満腹とか、ポテトチップスとベビースターラーメンとカールとキャラメルコーンの満腹とか、ハンバーガー3個とナゲット15個とフライドポテトLサイズの満腹とか、ケーキバイキング30個の満腹とか、牛ホルモンで特盛飯の満腹とか、そういった類の満腹ではなかったことをここに記しておきたい。クリーンフードの満腹でなければ、全能感は得られない。最近、よく考えるというか、知らぬ間に脳裏をよぎるのは、私小説作家、西村賢太氏の最後についてだ。氏の小説をここ数週間ずっと読んでいるせいか、その最後のタクシーのなかでの様子が、閃光のごとき一瞬のうち、本当に、ぱっ、とちらつくことがある。無論、その最後は想像に過ぎぬが。氏の日常を「一私小説作家の日乗」から振り返ると、毎晩、宝焼酎720ミリリットル一本を空けるのを常とし、一日、5箱のラッキーストライク。昼夜逆転生活の食事時間はまばらというより、不規則、あるいは変則が秩序を保っているような態で、その食事内容にバランスといった主観はない。繊細さもない。缶ビールはじまりがカルピスサワーに変わり、肴はコンビニ弁当と缶詰、締めはカップラーメン。昼食と夕食を兼ねた食事にはラーメンが多く登場する。欲望のまま、無頓着なまま、無為に繰り広げられる日々の食事。私小説作家、西村賢太氏は自身の健康に留意すべきだった。あと30年間、ひたすらに同じ内容の私小説を書き連ねてほしかった。虚構と現実の逆転がそれを許さなかったのかもしれない。
posted by せつな at 06:36Comment(0)日記

2月27日 朝

不世出の宰相、安倍元総理に比べ、志にとぼしい岸田総理にあって、ひとつだけ評価できる点がある。それは官邸に住んでいるということだ。やはり危機管理のうえで、国家のトップが中枢に控えていることは計り知れないメリットがあり、行動に移すのも決断に至るのも何事もスピード感が重要であることは容易に想像できる。では、なぜ、安倍元総理をはじめ、歴代のトップは官邸に住まなかったのか。当然、いろいろな理由がある。議員宿舎で暮らしていた岸田総理とは違い、多くのトップは近隣に自宅があるわけで、多くの一般人と同様、仮住まいよりは本住まいのほうが暮らしやすいのは明らかなわけで、たとえば、インテリア一つとってもこつこつと収集なり、構築なりをしてきた時間の流れはおいそれと引っ越し先で再現できない。しかも仮住まいで。ならば、少しばかり、中枢から遠くても、車を飛ばせば、3分で着く距離ならと官邸に居を移すことなく、自宅から通うトップがいることが多少なりとも理解ができると思う。ただ、理由はそれだけではなく、官邸にはあるうわさがあり、有名なので知っているかたも多いとおもうが、幽霊が出る、といううわさがある。唐突に思い出したのは昨日が226事件の日であり、昨今のウクライナをめぐるロシア軍の一方的な攻撃に突如、見も知らぬ昔日にタイムスリップしてしまった気分に陥ったからだ。226事件の「顛末」は各種資料から読み解いたが「空気感」には宮部みゆき氏の「蒲生邸事件」ではじめて触れた気がする。クーデター、と世を転覆させるような一大事件であろうと、その実態は過ぎし日に新聞やニュースで知るだけであり、それがのちにどのように扱われるかものちにしかわからない。皇道派の決起将校の気持ちは今はなき見沢ちれん氏の小説の推察から学んだが、ずいぶん昔のことなので覚えていない。されど、そんな気持ちとかはこういっちゃなんだが、どうでもよく、重要なのはその青年将校の霊が官邸に現れるらしい、ということだ。1929年に現在の首相官邸は完成したというが、それから515事件が起こり、226事件の舞台ともなった。内部写真を見たことがあるが、重厚で瀟洒であると同時に、不気味に感じた。それは洋風建築が昔のままというか、センスが明治とか大正で止まっているような印象を受けたからだ。実際に軍靴を履いた集団のざっざっざという足音を聞いたと証言する議員もいる。目覚めると、兵隊が立っていたと言ったひともいる。あとは官邸で暮らすと短命政権に終わるというジンクスもあるそうだが、いずれにせよ、官邸に暮らすこの一点だけは岸田総理を評価する。
posted by せつな at 08:21Comment(0)日記

2月26日 朝

人もいない春を読み終えた。昨日の朝から読み始め、雑用を織り交ぜながら午後2時過ぎに読み終わった。短編6話で構成されたそれは今まで読んできた貫多もの、あるいは秋恵もののなかで比較的、親和性の高い作品ばかりで、特に最後の「昼寝る」という牧歌的な作に触れたあとは、ひとまず西村賢太作品にこれで一区切りつけようと思った。数百円で買える本がもうほかにないということもあるが。昼食のお菜ににんじんペーストをベースにしたカレーを用意していたのだが、とりあえずこの一作を読み終えてからお昼にしようと読み始めたのが西村作品にしては異色の話「悪夢――或いは閉鎖されたレストランの話」というねずみを主人公にしたある意味ホラー。ねずみが煮込まれたカレーが登場するこの話を読み終えたそのとき、時刻は12時5分だったと記憶している。すぐとはお昼のお菜を口に運ぶ気にはならず、動物性の具材を一切、使用していないことだけが、とまれ救いではあった。表題作である「人もいない春」は貫多、17歳、春を描いている。17歳という多感なころ、気の利いた青春であれば、学業にスポーツ、バイトに恋愛という王道の輝きをこれでもかと発揮する時代であり、その輝きを支えに今日も歯を食いしばって、みたいなひとも中にはいるかもしれない。貫多は違う。「どうで50年も60年も、おめおめ生きていようってわけじゃねえんだ」二十三夜は貫多、32歳のプラトニックラブ。恋は貫多らしく見事に散る。「乞食の糧途」は秋恵の経済力にすがる男の話。「赤い脳漿」は変わらずのブラックユーモアだが、食卓に並ぶ出前の中華料理のように笑いがふんだんに盛り込まれている。短編の最後を彩る「昼寝る」は風邪を引いた秋恵の看病をする貫多が、5日経っても、6日経っても、治りかけてはぶりかえしを続ける秋恵に劇団ひとりの象の花子ネタのように「なんだか、だんだん腹が立ってきました」その貫多も風邪に倒れる。秋恵の立場になってみて、はじめて相手の痛みを知る。看病する側の得手勝手な親切がいかに病人にとって迷惑か思い知る。適度に放っておいてくれて、肝心なときにはしっかり看病してくれる秋恵のやさしさに触れる貫多。貫多の目に秋恵は聖母像のように眩く映るのだった。
posted by せつな at 08:17Comment(0)日記