1月27日 朝
まんぼうがはじまった。今日から来月20日まで。まんぼうの夜はFIFAワールドカップアジア最終予選を皮切りに日本戦が終わってからも朝まで盛り上がるぜえと思ってみても8時半で酒類の提供は終わる。9時で営業自体が終わる。孤独の傷を誰が舐めてくれるというのか。というわけで、そんな夜は読書をしましょう。体調が悪い日、風邪を引いている日、喉が痛くて食欲がないときに読みたくなる本がある。苦役列車のカップリング作「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」がそうで、苦役列車が映画化されたのに比べ、こちらは単行本を買った人しか知らない、あるいは同人誌で読んだことがひょっとしたらあるかもしれないというひとたちだけが思い浮かべる作品であり、多少の説明がいる。文体は西村賢太氏特有のもので、これはほとんどすべての作品において貫かれているが、氏が何かのインタビューで語っていたように藤澤清三の文体の影響が色濃い。西村賢太氏の私小説において、見るべき点は主人公の年齢にある。苦役列車の主人公は20歳前後の若者に対し、こちらは物書きになって以降の話。書き出しがすばらしい。「すっかりの快癒まではいかなくても、せめて一枚、痛みの薄紙がはがれてくれることを願っていた」核心からいえば、ぎっくり腰を患った40男の悲哀の話で、そこに文学賞受賞の知らせを待つわが身の不安定さとある評論家に対する侮蔑とわが身の重ね合わせが見事に調和し、表題である「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」に昇華する。卓越した職人の域の仕事だろう。なぜ、体調の悪い日にこの作品に惹かれるかといえば、やはり私小説だからという一点は見逃せない。ある京大卒左巻きヘンテコ顔の作家はおなじく奇妙な文体を用いてデビューしたが、彼は私小説は自慢と言い放った。なるほど、大学を出ると馬鹿になるとはよくいったもので、究極のバカは中卒の天才とは決して相いれないだろうことは理解できる。苦しいとき、ひとは私小説にすがるのかもしれない。久しぶりに根津権現裏を引っ張り出してこよう。