1月10日 朝
えべっさんに行ってきた。福を求めてどこから湧いてくるのか、すごい人だかりのなか、自分もまた福を祈願するのだった。今年は屋台も出ていた。無論、感染症対策はなされているのだが、ソーシャルディスタンスという概念は完全に吹き飛んでおり、マスクと消毒液は一瞬たりとも手放せそうにない。参拝を終えると、こちらも恒例の店で定番のあんかけうどんを食べた。今日もえべっさんに出かける予定だが、成人式が重なっているので、一段ときらびやかな光景が広がることだろう。えべっさんが終わると、いよいよ正月が明けたような気がする。大阪国際女子マラソン、スーパーボールを経て2月がはじまる。2月というだけの夜、とシオンも歌っているように節分も立春もバレンタインも祝日もあるのに2月には何もない気がする。正月が終わり、気が抜けてしまうのだろうか。昨日は河川敷で凧揚げを見た。なんかうれしかった。みんな子供だったんだ、と揚げているひとをみると、どうやらオトナだった。4月から成人の定義が18歳に変わるのに伴い、来年以降の成人式も当然、18歳で実施されるのだろうなと思っていたら違った。多くの自治体は従来通り20歳の祝いとして、名称を変え、執り行うそうで、理由はいくつか挙げられるが、その理由は新成人の定義に深く関係する。要はややこしいのだ。ややこいから一律、20歳でええやないか。ということらしい。18歳が成人年齢ということは親の同意を得ずにクレジットカードを作ったり、スマホを契約できたりする一方、飲酒喫煙、馬券購入は20歳にならないとできない。第三者でさえ、ちょっと勉強しなければ理解できないくらいなので、ほやほやの新成人はほとんど成人の定義を理解しないまま成人を迎えることになるかもしれない。翻って、自分のときを思い返せば、未成年から青年にかちっと切り替わった意識はあまりない。あまりないというか、まったくない。成人式もいかなかったし、いつのまにか20歳になっていた。成人式の日も服屋で働いていた。多くのひとがそんなものかもしれないが、はっきりと知っていたのはこれから堂々と煙草を吸ったり、酒を飲んだりできるということだけだった。酒もたばこも15歳ぐらいから覚えていたが、後ろめたさを多少なりとも感じていたのは17歳ぐらいまでで、18歳頃にもなると、周りの目も成人を見る目だった。国際社会の慣例から明治以降140年ぶりの改正というが、どちらかというと、逆行している気がしないでもない。成人年齢を23歳ぐらいに引き上げて、還暦を70歳までずらして、選挙権を16歳から75歳ぐらいにすれば、いまの社会にしっくりくる。