1月3日 朝
正月も三日ともなると非日常感が薄れるな、とは酒ほそにあったセリフだが、最近は元旦でも非日常感をそれほど感じない。外ですれ違うひとにおめでとうというわけでもなく、ジムが閉まっているので普通に外を走っているし、大晦日も正月もスーパーで買い物をした。昨日はもやしとアボカドを買った。とはいえ、正月三が日が終わるかとおもえば、やはり寂しい。昨年の余韻にもうちょっと浸っていたい。今年がはじまった、とまだ気合を入れたくない。弛緩していたい。のんきに構えていたい。馬鹿者、一年の計は元旦にありだ、正月からフル活動するのだ、と、のたまうあなたにいいたい。正月三が日をのんびり過ごすことにはそれなりの意味がある。正月とは年神様を迎える大切な儀式であり、その年神様は福を携えて家を訪れてくれる。であるから、その福を払いのけないよう掃除をしてはならない。洗濯も年神様を水で洗い流してしまうからダメ。水仕事は一切、ダメ。風呂掃除もバツ。また、台所で刃物を使うこともよくない。包丁で切ることが縁を切ることにつながるからだ。このように年神様を迎えるにはそれなりのルールがあり、そのルールは正月をゆっくり休むことでおのずから守られることになる。翻って、現代社会を顧みると、なかなかルール通りにいかない現実というものがあって、近隣のマンションのベランダには洗濯物が干されているし、元旦から開いているスーパーは開店前から行列ができている。なぜ、その行列を確認できたか。たまたまその時間に近隣をジョギングしていたからだ。包丁を使わない日はないし、毎日の洗濯も欠かせない。掃除にしろ365日、一日も休めない。片岡鶴太郎氏の朝ヨガのように掃除はもはや儀式だからだ。現代社会を生きる一員であるからこその所業であるが、じゃあ、ケの日のようにあわただしいかといえば、そうでもない。魚は水泳選手のようにがんばって泳いでいるわけではない。泳がなければならないから泳いでいるだけなのだ。ハレの日も今日までというとそうはいかぬはいかぬたわけわかめというわかめ、いや、わけで、全国的にはどうか知らないが、大阪の場合、えべっさんが正月のメインという気配がある。そして、西宮、今宮、堀川などの名高いえべっさんに出かけると、晴れ着姿の若者がいて、その日はちょうど成人式に重なる。えべっさんが終わると、ようやくおとそ気分も薄らぐという具合なので、三が日が過ぎようと明日も正月は続くわけだが、自分に照らし合わせると、正月気分が抜ける瞬間というか、もういいやと思う瞬間がいやが上でもやってくる。目安は内臓疲れ。もうそろそろやばい。