1月28日 朝

映画ジョーカーのなかにこんなセリフがあったと思う。毎週、同じ質問ばかり。気分はどう?変化はない?気分は最悪だ。何も変わらない。ああ、相変わらず、のどが痛い。熱のはなというのか、くちびるがめくれ上がったようになってきた。ただ、のどの痛みさえなければ、ほぼほぼ乗り切った気はする。果たしてオミクロン株だったのだろうか。そんな疑問はさておき、といきたいが、この部分が意外と重要な気がしないでもない。検査キットが売り切れで、検査を受ける場所も見つけられず、そうこうするうち、症状が緩和し、そのまま治ってしまい、果たしてコロナだったのかインフルエンザだったのかただの風邪だったのか。はて。そういうひとは結構、多いのではないだろうか。そうすると、こういったひとたちの割合はデータ化されないわけで、濃厚接触者とか10日間の自宅待機とかの意味もあまり関係なくなる。為政者としては無論、放置するわけにもいかないので、対策を講じるしかないが、その対策の方向性に果たして未来を見いだせるかどうか。専門家によっても意見がわかれる。そもそもウィズコロナとさんざん言っていたはずなのに結局、感染者数が増えれば、命は尊い派の意見に押し切られる。押し切られたあとはまんぼうが発動する。あるいは緊急事態に移行する。それでいいと思う反面、実際に罹患し、苦しい思いをすると、見方が変わってしまう。昨日「カメラを止めるな」という映画を見たが、ゾンビになるのは怖いが、ゾンビになると、ゾンビなんだなあという感覚というか、違う表現をすると、一生、楽な子供でいたかったけど、オトナになってしまえば、オトナは続くという感覚。苦しいオトナや楽しいオトナというカテゴライズはありかもしれないが、しょせん、オトナの枠組みのなかのひとつのとらえ方であり、肉体的にも精神的にも子どもに戻ることはない。コロナ前には戻れない。自己防衛しかない。
posted by せつな at 08:03Comment(0)日記

1月27日 朝

まんぼうがはじまった。今日から来月20日まで。まんぼうの夜はFIFAワールドカップアジア最終予選を皮切りに日本戦が終わってからも朝まで盛り上がるぜえと思ってみても8時半で酒類の提供は終わる。9時で営業自体が終わる。孤独の傷を誰が舐めてくれるというのか。というわけで、そんな夜は読書をしましょう。体調が悪い日、風邪を引いている日、喉が痛くて食欲がないときに読みたくなる本がある。苦役列車のカップリング作「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」がそうで、苦役列車が映画化されたのに比べ、こちらは単行本を買った人しか知らない、あるいは同人誌で読んだことがひょっとしたらあるかもしれないというひとたちだけが思い浮かべる作品であり、多少の説明がいる。文体は西村賢太氏特有のもので、これはほとんどすべての作品において貫かれているが、氏が何かのインタビューで語っていたように藤澤清三の文体の影響が色濃い。西村賢太氏の私小説において、見るべき点は主人公の年齢にある。苦役列車の主人公は20歳前後の若者に対し、こちらは物書きになって以降の話。書き出しがすばらしい。「すっかりの快癒まではいかなくても、せめて一枚、痛みの薄紙がはがれてくれることを願っていた」核心からいえば、ぎっくり腰を患った40男の悲哀の話で、そこに文学賞受賞の知らせを待つわが身の不安定さとある評論家に対する侮蔑とわが身の重ね合わせが見事に調和し、表題である「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」に昇華する。卓越した職人の域の仕事だろう。なぜ、体調の悪い日にこの作品に惹かれるかといえば、やはり私小説だからという一点は見逃せない。ある京大卒左巻きヘンテコ顔の作家はおなじく奇妙な文体を用いてデビューしたが、彼は私小説は自慢と言い放った。なるほど、大学を出ると馬鹿になるとはよくいったもので、究極のバカは中卒の天才とは決して相いれないだろうことは理解できる。苦しいとき、ひとは私小説にすがるのかもしれない。久しぶりに根津権現裏を引っ張り出してこよう。
posted by せつな at 10:50Comment(0)日記

1月26日 朝

熱が40度、出た。ひさしぶりに風邪の苦しさを経験した。フシブシが痛い。背中が痛い。体のあちこちが痛い。特に腰が痛い。のども痛い。ホットカーペットの上に転がり、布団をかけて震えていた。ビタミンcを3グラムは一度に飲んだ。Lシステインも500ミリ飲んだ。不本意だが熱を下げてしまうルルも飲んだ。腰に湿布を貼った。ベッドに移り、一晩中、震えていた。頭が痛い。喉が痛い。意識がもうろうとする。睡眠時なので朦朧としていいのだが、幻覚を見ているような、高熱が出ると、よく見る高所の夢。なんとか峠は越えたようなのだけど、果たしてこれはコロナなのかどうなのか、検査キットを注文する勇気がない。正直、もったいなくもある。無料で受けられる場所があればいいのだが。明日から大阪はまんぼうに突入する。27日から来月20日まで。正直、ずっとまんぼうでいいというか、人との距離、マスク、手洗いうがい、外出を控える、飲食店の時短営業、とメリットしかない。時短営業がなぜメリットかというと、治安がよくなる。街が荒れないのだ。人ごみも少なくなるし、清潔な街が担保される。清潔な街といえば、とっさに思いうかぶ映画作品がある。その名はタクシードライバー。いわずとしれたデニーロの大出世作だが、体を売る幼い少女や矛盾であふれた世界にやがて狂気をおぼえる主人公トラヴィスの姿は40年の時を経て、ジョーカーへと受け継がれる。この映画にヒントを得て、モッズは「トラヴィス、トラヴィス、すえたにおい、汚れた街を撃ち抜いて」と歌った。ひじょうに印象深い歌詞であり、日ごろ、まったりと生きている自分もあまりにひどいニュースを聞くたび、触れるたび、汚れた街を撃ち抜きたくなる。たとえばこんなニュース「電車内での喫煙を注意した高校生が10分以上も暴行を受ける。他の乗客は止めず」たとえばこんなニュース「助手席に乗せたペットのインコに気をとられよそ見、3歳児ら2人…」たとえばこんなニュース「小さい魚をきょうだい皆でわけて食べている。ヤングケアラーだった少年の凄惨な日常」世の中を清潔にしたい。もううんざりだ。トラヴィスになりたいと思うことがある。とりわけ、こんな意識がもうろうとする朝には。
posted by せつな at 10:30Comment(0)日記