12月31日 朝
今年も残すところ、あと一日となった、という書き出しや口上を大みそかになると何度も聞いてきた。今年こそは、とか、来年こそは、とかの決意表明もよく聞く。そのたびに思う。聞くたびに感じる。今だよ、いま、と。今日一日をどう生きるか。この一瞬をどう活かすか。ザ、コルツにこんな歌詞の歌がある。「今日を楽しめないやつに、明日なんかきやしないのさ」ゲンドウミサイルにもこんな歌詞の歌がある。「砕けた夢のかけら、そんなもんどうでもいい、今日はどこで何をやるか、それが問題だぜ」林修氏の「今でしょ」が世の中を席捲したのはいつだったか。調べてみると、2010年のことらしいが、なぜ、この一言がこれほど長持ちしているか。考えるに「いつやるか?今でしょ」という単純にして明解、機に挑み変に応じる即答は逡巡躊躇する悩める子羊の背中を蹴り飛ばすからだと思う。蹴りたい背中をよしんば蹴ることなく放置しておくと寂しく丸くなっていくばかりで、だからといって、力任せに虎穴に入らずんば虎子を得ずうううぅぅぅと激しくドロップキックを決めれば虎に激突するかしらん。そこで「今でしょ?」と、やさしくソフトなカモミールの香りのする靴下でそっと蹴り飛ばしてやるのだ。「やればできるよ、できるよやれば、やるしかないんだから、やらなきゃだめですよ」これはクレージーケンバンド。いろんな歌や歌詞に支えられた一年だった。じゃあ、来年はというと、いろんな歌や歌詞や本や絵や映画や食事や人やモノやテクノロジーに支えられる一年になると思う。しからば去年はというと、広く解釈すると、いろんな芸術に支えられた一年だった。それなら人生はというと、芸術に支えられて、歩んできて、歩んでいくのだと思う。時折、心細くて、倒れてしまいそうな足取りも芸術に肩を借りて、やり過ごす。倒れてひとりでは踏み出せない時も芸術に背中を借りて、次へコマを進める。往々にして人生は苦難の連続だと思う。うちの母親は苦労しか知らない人生だった気がする。でも、笑っている顔しか思い出せない。思い出さないようにしている。昨日はIHクッキングヒーターを冷蔵庫にぶつけた。時間がなくて慌てていた。ぶつけた箇所がへこんだ。買ったばかりの冷蔵庫がへこんだ。朝からへこんだ。人生は苦難の連続。しかし、この傷を愛そうと思う。へこんでしまったけれど、愛している。今、この瞬間。生きている。それだけが証。傷ついても、時が経てば、その傷は味になる。傷つき、気づく。今。この瞬間。一瞬のきらめきだけが真実だと。