8月31日 朝

110円で購入したイケアのテレビボードの足が取れた。もともと無理のある接着だったので、この機に頑丈に作り直すことにした。とはいえ、110円で買ったものにカネをかけるべきか、110円路線を貫き通すべきか迷った。迷ったすえ、もう一度、ボンドでくっつけ、ブラウンのインテリア用テープでがんじがらめにすることにした。スリムテレビボードという名称ではあるが、テレビ用で使うものではなく、重量物を置くことも皆無なので、これで事足りるだろう。きれいに仕上がったとおもう。それから次の作業がスマホのシム交換。自分のものではないのだけれど、これがけっこう手間取ってしまった。頭が割れそうだ。昭和に25を足すと西暦になるという裏技のおかげで割れずに済んだ。設定、終了。次は食材整理だ。こちらも終了。イオンのお客様感謝デーというわけで、買い物にでかけるも、あくびが止まらない。昼日中からあくびを連発するタンクトップにサンダルのチンピラは人様の目にどう映ったのだろうか。焼酎を二本、買って、雑貨屋を散策。先日、彩都のフランフランで買うかどうか迷ったウッド調プレートを探したが、やはり見つからず。買っておけばよかったと思いつつ、1300円という値段に躊躇してしまった。欲しいのはロフティーセパレートラウンドプレートというフランフランにしかないもので、これに似たものを安く手に入れたい。ウッドプレートはデザインとして最高なのだけれど、欠点は電子レンジ使用不可ということで、晩酌用の三点仕切りのあるプレートは電子レンジ使用不可避というわけで、こいつぁ困った困ったこまどり姉妹しまったしまった島倉千代子。ネットで検索するもヒットするのはフランフランのものばかりで、送料が550円もかかる。一応、ニトリでも似たような樹脂製のプレートを見たが、ウッド調がこれでもかそんなにかあんなにもかというほど安っぽい。まいったまいったマイケルジャクソン。これはもう1300円で妥協するしかない。アンドモールに商品を取りに行く予定があるので、その日にエキスポのフランフランを探索し、なければ彩都にまで行ってやる。一度、惚れりゃとことん、スピード狂は快楽のとりこなのだ。よかったよかった吉永小百合。
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8月30日 朝

決勝が智辯学園と智辯和歌山になったらおもろいやろな、とおもっていたら実現した。大阪代表の桐蔭が早々に姿を消し、石見ちすい館を応援していたのだけれど、ここも和歌山との決戦に敗れ、姿を消した。ベスト8がご近所という点も見逃せない大会だった。北海道、東北、関東、九州が全滅。ベスト8に勝ち残ったのは覚えている限り列挙すると、福井、敦賀気比。滋賀、近江。京都、京都国際。兵庫、神戸国際。高知、明徳義塾。島根、岩見ちすい館。奈良、智辯学園。和歌山、智辯和歌山。全部、覚えていた。さらにベスト4に駒を進めると、京都、滋賀、奈良、和歌山の関西勢のみとなる。さらに決勝が智辯対決。プロ野球のようにホーム&ビジターなどもないので、相当、入れ込んで観ていなければ、選手の区別がつかない。相当、入れ込んで観ていた自分は智辯学園に肩入れしていた。前日の試合に痺れたからだ。エース小畠選手の高校通算二本目のホームランが甲子園でのスリーランとなり、この三点を守り切るとともに、最後は三振で締めくくった気迫を粋に感じた。決勝の最後は彩都のニトリの駐車場で観た。9対2という結果に改めて智辯和歌山の打撃力に脱帽した次第。ヒット数は16本だったとおもう。とにかく打ちまくっていた印象。これで第103回全国高等学校野球選手権大会の全日程が終了した。高校野球が終わった。万感、胸に迫る夏の終わりの予感。一抹の寂しさと、漂いだす残暑と秋の気配。時をおなじくして、たまたま自宅で眠っていたとあるマンガを読み終えた。それは、巨匠、あだち充氏のマンガ「ナイン」というもので、有名どころはタッチやh2だったりするのだけれど、ナインはもっと前の作品にあたる。全5巻。第一巻が刊行されたのが1980年というわけで、当時、18歳として主人公は現在59歳に達している。(連載開始時1978年を考慮すると、還暦を超えている)あだち充作品で思い出深い最終話をふたつ挙げると、自分の場合、ひとつは「みゆき」もうひとつが「ナイン」となる。何度、読んでも、胸が締め付けられるような、息苦しくなるような、涙を流さずに泣いているような、言いしれない独特の虚無感にしばらく支配される。甲子園の夢が終わると、3年生は現実に向き合うことになる。進学か就職か。高校球児の高校生活も余韻を残すばかりとなる。さわやかな青春などという近年、稀にすら聞かれなくなった青春は観る分には今も楽しい。ナインの最終話、卒業アルバムの巻の最後はこんなセリフで締めくくられる。「あと、何か月がすぎると、おれたちは清秀高校というグラウンドをあとに、大学、そして、いずれは社会という大きなグラウンドのそれぞれのポジションに散っていく。しかし、たとえどんなに離れ離れになったとしても、この三年間の思い出は、それぞれの心のあたたかな場所で、いつまでも消えることなく、エラーをおそれ、ベストをつくせなくなった時には、いつでも、さわやかなコンバットマーチを聞かせてくれるだろう。ゲームセットの声を聞くまで」青春ていいな。夏休みっていいな。青春真っ最中って響きがいいな。アニメ版を観ると、清秀のユニフォームが智辯にそっくりだった。
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8月29日 朝

山本七平氏の「無所属に時間」を本棚から引っ張り出してきて読み始めた。ずっと読みたかった本だが、すっかり忘れていた。なぜかタイトルが目に飛び込んできて、これを機にパラパラと頁をめくっていたら冒頭から本多勝一氏をおちょくっていて痛快だった。本多勝一と書いてバカと読むのは日本人の常識だが、それにしてもおちょくりかたが格式高いというか、寝起きのぼんやりとした頭をしゃきっと目覚めさせる難解さが漂っている。山本七平氏はインテリのなかのインテリなのだ。本書は西日本新聞の「随想」に掲載された文章をエッセイ集としてまとめたものだが、タイトルを無所属の時間と意図した理由を最初の「はじめに 旧版」で記している。高尚にしてエレガントかつ都雅な説明なので実際、読むかどうかは別として読解力は個々の能力にまかせるが、結論の一文はわかりやすい。「人間の新しい発想とは、実は、無所属の時間にしか生まれないものなのである。従ってもし本書が、多くの人の新しい発想に資するなら、私にとってはそれは、望外の喜びである」無所属の時間のなかで語られる評論は多岐に渡っている。なかでも、86ページの「言葉と映像」あたりが、顕著に時代性を映し出していて、わかりやすいとおもう。「昔なら、小卒の若い衆ですらもっていた言語能力が、今では大学生にすらない」「いろいろな理由があると思うが、その一つにテレビの影響、いわば映像文化の影響があげられるとおもう」「言葉という媒体なしで、対象が直接に自分にせまってくる」等々、言語能力の重要性を説いている。夏目漱石の小説にも「当世の若者は」みたいな若者批判の一文が出てきて、いつの時代も変わらないな、とおもったことがあるのだけれど、これについては明確に「時代は流れる」というよりほかない。いまは映像が物語り、それを理解できるかどうかが問われる世の中なのだ。これを映像リテラシーと呼ぶ。さらにいうと、所属という発想自体、そのうち、古めかしいものになるような気がしないでもない。昔々、マズローというおじいさんが欲求5段階説というものを言いはじめました。おじいさんは尿意を我慢できません。おなかもペコペコでした。尿意から解放され、おなかが満たされると、おじいさんは安全なおうちが欲しくなりました。おうちが見つかり、ほっとしたのも束の間、おじいさんはひとりぼっちでいることが寂しくてたまりません。家族が欲しい。社会の中に居場所が欲しい。家族ができて、社会に居場所が見つかると、今度は家族や社会から尊敬されたい、認められたいとおじいさんはおもうようになりました。やがて、おじいさんの命の炎も燃え尽きそうになるころ、おじいさんはあらゆる人たちから成功者と呼ばれるまでに至りましたが、何か満たされません。自分とは何か。自分は何のために生まれてきたのか。自分のあるべき姿とは何か。そう、それこそが新しい発想を得る切っ掛けなのでした。マズローによると、所属は3段階目の欲求となる。避けては通れない欲求なのか、進化の過程でいつかクリアする日がくるのか。いずれにせよ、新しい発想は古い発想からスタートするのだなと改めて認識した次第。
posted by せつな at 06:57Comment(0)日記