7月31日 朝

気温36度の炎天下のなか、コーテルサンガーとビンビールイーガーですっかり英気を取り戻した。一昔前は夏バテといったが、昨今は症状を察知したら熱中症を疑わなければならない。こういうとき、餃子の王将はありがたいのだった。さて、夏バテ知らずのオリンピックはメダルラッシュが続く、と定型通りの切り出しからはじめるが、最も気になっていた100キロ超級でメダルを逃した。ボクシングでいうところのヘヴィー級にあたるこの階級で、近年、記憶に残っているのは現解説者の篠原真一氏の銀メダルであり、日本国民全員が涙したあの日を思い出さずにはいられない。その後、プロレス界に転身した小川直也氏も銀メダルに終わった。シルバーメダルという栄光の称号に笑顔ひとつなく、悲嘆に暮れる表彰台というイメージが100キロ超級にはある。前日、ウルフアロン氏が100キロ級で金メダルを獲得し、柔道現総合監督の井上康生氏の金メダル以来、21年ぶりの重量級の快挙となったが、その21年前の100キロ超級の代表が篠原氏だった。21年ぶりの快挙とともに21年ぶりの雪辱をひそかに期待していた。それほど、あの一日のくやしさは日本国民の胸に刻まれている。試合を実況していたNHKではスタジオの有働さんもこらえきれずに涙を流していた。テレビの解説であのように泣く人を見たのははじめてだった。世紀の大誤審。こんな誤審がまかり通っていいものか。21年前、スポーツ界を取り巻く環境はいまほど整備されていなかった。よく、昔はよかったという人間がいるが、それは大いなる誤解というもので、終身雇用、年功序列を約束されたサラリーマンの光の部分だけをみて判断するのはあほの所業だ。注視すべきは影の濃さであり、今の時代とくらべれば今はまさに出藍の誉れで青は藍より出でて藍より青しなのだ。柔道もルールが事細かく変わった。東京オリンピックでは21年前のジャッジは絶対に起こらない。今、に慣れてしまうと、昔、が狂っていたことを実感する。昨日、たまたま、ごっつ、をユーチューブで観ていて、それを痛感した。あの、ごっつ、の映像を観て、小山田氏を取り巻く問題を捉えると、また、違った見方ができるかもしれない。100キロ超級が終わった。メダルはない。全階級のメダル達成ならず。これがドラマツルギーなのだとおもう。ドラマは続く。
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7月30日 朝

サイゼリヤに行くと、激混みだったので、王将にした。ワインの舌だったが、王将といえば、瓶ビールだろう、そうだろう、それにコーテルリャンガーも注文し、一緒に持ってきてもらうことにした。この店舗の店員さんは気が利いて、向こうから言ってくれたが、餃子とビールは同時到着が好ましいことを数々の経験から確信に至った。たとえそれが灼熱の昼下がりであっても、喉がからからであっても、待つのだ。ただ、ひたすら餃子が焼きあがるのを待つのだ。果たしてそのときはあまり待たずして訪れた。店内は満席だ。王将にも当たりはずれはあるのだろうが、守口店で外すことはほとんどない。まずはビールを王将オリジナルグラスに注ぎ、一杯目は一気飲み。王将では生ビールではなく、ビンが俺流基本だ。液体が渇いた喉を潤し、乾いたカラダへしみわたっていく。アルコールが血流をめぐり、胃の腑にポッと灯がともる。つけだれはふたつ用意する。これも俺流基本だ。一皿は酢に胡椒をこれでもかと振り入れるだけ。二皿目は餃子タレ&ラー油の黄金コンビ。ひさしぶりにいただく王将の餃子は灼熱の昼下がりにがつんときた。もうこれだけで今日は勝った気がした。ちなみに何十円かプラスすればにんにく増し増しも頼める。夜に予定があるかたは増し増しにしましょう。二杯目も当然、一気飲み。駆けつけ三杯も俺流基本。王将の店内を好ましく思うのは店舗にもよるが座席が広いこと。大阪王将にはこれがない。そして、マニアにしかわからない、かもしれない好きな光景というものがある。冷えっひえに冷えたエアコン24度設定の店内にあって、厨房が調理の熱で揺らいでみえるのだ。外は熱波でかげろうが揺らぎ、厨房も熱気でまたゆらいでいる。これはライブなのだ。カゲロウを通じて繰り広げる客と演者のハーモニー。店内を飛び交う王将用語が花を添える。ソーハンリャンガー、エンザーキーイーガー、コーテルイーガー、ビール、カイカイで。ジャンルでいうとパワーメタルだ。ソーハンを炒めるフライパンから響くお玉のシンコペーション。エンザーキーのジャーレンはパワーコードでギターリフを刻んでいる。オッケー。客から歓声が上がる。「チューハンイーガー!」ボーカルが答える。「チューハンワンラー!」ほな、ウースーメン、ムーシーローイーガー、カイカイ。
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7月29日 朝

やるべきこと、やりたいことが山積している。一応、進んではいるが、一回、つまづくと、そこに時間を取られ、ストレスもともに積み重なっていく。もう、何も考えたくないとおもうし、放ったらかしにできるかというとそうもいかない。結句、やるしかない、という選択肢しか残らない。人生は非情だ。今日はひさしぶりにじゅうじゅうカルビの凄得ランチ焼肉食べ放題に行こうとおもったら、サービスが終了していた。理由は「新型コロナウィルス感染拡大による社会混乱により原材料が高騰し、メニューを継続するのが困難となりました」とのこと。今後は焼肉プラスサイドメニュー食べ放題に変わる。今までがお得すぎたのかもしれない。しかし、世の中はどうしてこうもめまぐるしいのか。庶民にとって、変化の波はこうしたところで実感する。多様性とか、共生文化を謳ってみても、しょせん独りよがりな社会にあって、変化は自己で消化するしかない。そういえば、最近、焼肉を食べていないなあ、と一瞬、よぎった心の声が変化を教えてくれる。こうしたことはよくある。最も顕著な例が、昔の契約を見直すときとか、大型家電や車といった高額商品を買い換えるときとか、忘れていた店を急に思い出し、訪問したとき、とかに発生する。いつまでも昔を引きずっているわけでもないが、知らずしらずのうちに小さな変化を見逃してしまう。テレビとパソコンを買い替えたら電気代が半分になった等もその一種だし、新政府による景気刺激策におもわぬ恩恵を受けることもある。変化は気づきを求めている。気づく者だけが次世代を生きる資格を得る。さらにいえば、いかに早く気づくか。情報はナマ物だから適切に処理して少しでも早く活用しましょう、といわれた時代から時間は流れた。情報が重要なことに変わりはないが、情報そのものが持つ価値より、情報に付帯する付加価値に気づけるかどうか、が大切なのだとおもう。この思いは10年ぐらいまえからの思いでもあるし、コロナ禍ですっかり変わってしまった生活スタイルのおかげか、より強く感じるようになった。単純に情報をお金に置き換えると、お金の価値というものは貨幣価値に過ぎない。お金の付加価値に目を向けると、お金というパワーを行使して何かを手にするか、お金のパワーを使わずに何かを手にするかの二択が浮かび上がることがわかる。これが付加価値だ。いかに幸せに生き抜くか。世界が変化を望むなら喜んで受け入れよう。だいたい年齢を重ねること自体が変化なのだから。怖がっていてもしょうがない。変わり続ける。それでいい。
posted by せつな at 06:57Comment(0)日記