6月16日 朝
コンパクトシティの高層ビル化が日本を救う。こういう発想を抱くようになったのは夢を見たからだ。もともと戸建てにこだわりがなかったということもあるし、限界集落という造語が心底、嫌いだということもある。最近は過疎化がさらに進み消滅集落と呼ぶらしいが、これはいい兆候だ。ぽつんと一軒家みたいな番組があるけれど、こういった家は爆撃してつぶしてしまえばいいとおもう。夢のなかではマンションのなかにすべてがある。屋外のイメージがマンション内といえばよいだろうか。ともかくすべての用足しがマンション内で可能というような夢。この夢は六本木ヒルズのような複合型ビルの乱立によって、カネさえ持っていたら実現できるようになったが、まだまだ一部の人間による特権であり、これからの日本を鑑みたとき、すべての国民を集合住宅により、管理する時代がやってくるかもしれない。その試金石がコンパクトシティであり、効率性と持続可能な社会を支える基幹システムとして期待される。コンパクトシティの高層化はひとえにテクノロジーが高齢化を救うその一点において、すぐれている。支える、ではなく、救う。救われるのは高齢者でもあるが、若年層や壮年層の生産世代を老害から救う目的を主眼において、構築する。昨今、買い物難民という言葉をよく聞く。人口減少により、相次ぐ商店の閉店。手押し車に買い物袋を入れ、ひたすら長い道のりを牛歩のような速度で歩道を歩くお年寄りはかわいそうだし、他の歩行者にとってはじゃまでもある。昨日は業務スーパーの入り口で、足で踏むタイプの消毒スプレーのレバーの根元を踏んだり、カバーのかけられた消毒液の周辺をまさぐっていたり、その場所を独占する高齢男性がいた。見かねたほかの客が声をかけると「足で踏んでもでえへんねん」ととぼけている。声をかけた客はレバーの先端を踏み、さっさと消毒をすませ、とっとと店内に消えたが、とぼけるとぼけるは同源なのだと改めて思い知る瞬間だった。こういった老害が運転する車や、老害が跋扈する世の中から身を守るすべがコンパクトシティの高層化であり、老人の歩くスピードは変えられないし、かといって歩く歩道をそこらじゅうに張り巡らせるのは困難だ。車に乗るなど言語道断であるし、電動カートも特に狭く混み合う店内では買い物客の進行を妨害する。ならば、障碍者はどうするのだといわれると、まさについこのあいだ炎上した伊是名氏のブログ問題の解決にもつながるのがこの都市政策で、それがコンパクトシティの高層化だ。明日に続く。