6月6日 朝
いっぽうの見方があると、もういっぽうの見方があるという当たり前の現実をここ数日でふたつ目にした。ひとつは熊田曜子氏のDV離婚騒動。もうひとつはキッチンダイブの泥酔客報道。共に朝のワイドショーで一報を目にした。この一報で終わっていたら、この印象で終わっていたかもしれない。物事には裏表がある。なぜ、DVに発展したのか。なぜ、客が激高したのか。この視点がワイドショー報道になかったことで、改めて、テレビという媒体に不信感を抱いた。訂正放送はあるのだろうか。谷原さんの番組も先は短いな、とかおもったのだけれど、羽鳥さんの番組は長く続いているわけだから、これがテレビとか、マスゴミとかいうものなのだろう。モッズにフレンドオアフォーという歌がある。「からみあった時代、仕掛けられたニュース、嘘とほんとが見えにくくなる、それぞれの街に鳴り響くアラーム、あやつられているマスコミュニケーション ~フレンドオアフォー泣きをみるぜ、真っ白なままに信じちゃ」というような歌詞なのだが、これは湾岸戦争直後ぐらいに作られた曲で、当時、話題になったのがナイラ証言と呼ばれるものだった。これ以前は比較的、冷静だった米国の世論、どちらかというと戦争に懐疑的だった世論がこの証言をきっかけに一気にイラク殲滅へと傾くことになる。ナイラという少女はイラク軍のクウェート侵攻において、いかにイラク軍がクウェート国内で悪逆非道をきわめているかということを涙ながらに国際機関で訴えた。フセインが赤ちゃんを踏みつぶしているとか、そういったことだ。のちにナイラなる少女は存在せず、その証言をした少女はクウェート駐米大使の娘だったことが判明する。証言に裏付けはなく、まったくの出鱈目であったこともわかり、クウェート政府が意図したプロパガンダだったことも併せて明るみに出るのだが、とき、すでに遅し。湾岸戦争が勃発した。デイブスペクター氏などは、イラクに大量破壊兵器が存在するのは当たり前なんだからあ、と例の舌っ足らずな日本語で力説していたが、そんなものは戦争が終わってみれば幻の産物に過ぎなかった。ナイラ証言が戦争プロパガンダとして成功したゆえんは人々の思い込みにある。すなわち、弱者はうそをつかない、現地で現場を見た被害者はうそをつかない、女性や子供の証言、といった思い込みだ。男性より女性のほうが立場が弱く、店員より客のほうが立場が強い。この観点にとらわれると、物事の本質は見えてこない。真っ白なままに信じちゃ、泣きをみるぜ。