3月31日 朝

羽田圭介氏の芥川賞受賞作品、スクラップアンドビルドを読んだ。内容はだいたい知っていたが、ちゃんと読み通すのは今回がはじめてだった。これもたまたま本棚をまさぐっていたら文藝春秋をみつけて、それに火花とスクラップが載っていた。火花と同時受賞したことを知った。羽田氏の作品をはじめて読んだのは黒冷水という文藝賞の話題作だが、今作は対おじいちゃんで、羽田氏の描く家族間の通奏低音には今回もブラックで皮肉な暗い冷笑が漂っている。なのに、爆笑あり、哀哭ありで、主人公けんとのバイタリティとじいちゃんのバイタリティが補完しあい、物語を決して深みにはめず、たんたんと進行させていくその技量はさすがとおもった。スクラップアンドビルドは作品全体を覆うテーマであるが、主人公けんとの超回復でもある。超回復というのは筋トレをやっているものなら知らない者はいないが、いったん筋肉を破壊すると、今度はそれよりも大きな筋肉がつくというもので、うまくテーマにフィットさせ、実際に超回復なのだが、メタファ的にも超回復になぞらえた力業に感心する。超高齢社会を痛烈に批判するいっぽう、その根底には日本社会が避けては通れない、きたるべき次世代へのマニュアルが網羅されており、そのマニュアルは開く者と開かれる者とに介在する苦痛でもある。その苦痛を多くの当事者は介護と呼ぶ。けんとのおじいちゃんへの愛は徹底した介護を行うことによって、おじいちゃんの超回復を妨げることで示される。手足を弱らせ、思考を停止させ、衰え、萎縮し、やる気を失わせるため、とにかくおじいちゃんの行動、意思を奪う。おじいちゃんの尊厳――苦痛なく天国へ行く希望――を叶えてやるためだ。 これは今後、続々と訪れる超高齢化の波と超高齢者を抱える家族にとって、多くのことを示唆しているが、表題であるスクラップアンドビルドは、おもえば、個人的にはパンクの代名詞だった。続けることがパンク。壊すのも、作り上げるのも、パンク。行き着いた答えは、壊し、作り上げ、続ける。そして、また壊すこと。そうか。高齢者ってパンクだったんだ。人生はパンクだったのだ。この時期に読んでよかった。明日は4月1日。明日から新年度。明日から新生活がはじまる。なにを、そんなに急に変わるわけがないだろうと宣うひともいることだろうが、自分の場合は明日から生活スタイルが一変する。今日でいまの生活を壊す。スクラップアンドビルドの最後はこんな文章で終わる。「あらゆることが不安だ。しかし少なくとも今の自分には、昼も夜もない地獄の中で闘い続ける力が備わっている。先人が、それを教えてくれた。どちらにふりきることもできない辛い状況のなかでも、闘い続けるしかないのだ」あらゆることが不安だ。それでいいとおもう。じいちゃんの本音が生にしがみついているように。
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3月30日 朝

春眠暁を覚えずという慣用句がある。まさにこの時期。特にこの二日間はそんな感じだった。眠りから覚めると、今日は30日。ということは、イオンのお客様感謝デー。ひさしぶりに株価をチェックした。買い戻すにはまだ高い。すでに陽も高い。また、うとうと。気づくと、高いびき。さて、昨日は午後7時過ぎに寝た。起きると、今朝は6時前だった。一昨日は午後8時前に寝た。起きると、朝は4時半だった。単純にひも解くと、今日は午後6時半ごろに寝て、起きると、あくる日7時前ぐらいという予測になるがそうはいかのきんたまたこがひっぱる。今日は眠れない。なぜ、こんなに疲労しているのだろうか。昨日の午後はもう身体がいうことをきかなかった。引きずる足で出歩いた。これはひとえに午前中のジム通いと午前中のバタバタにあるが、このバタバタは始終つきまとうバタバタであるので、だいたい午後もバタバタしている。とにかく起きたら、その日、一日、整理する要件を片っ端から用紙に書き出す。それに沿って休む間もなく、動き続けている。ジムで走り、トレをこなし、風呂にはいる。午前中に作り置いたメニューで昼食を済ませ、しばし休息する。のち、午前中の残りに取り掛かる。そうこうするうち、用足しに出かけなければならないので、作業途中でもでかける。帰ってくると、晩酌がはじまる。酒の肴の用意がない日は大変だ。めんどうだ。ああ、眠くなってきた。時間をみる。午後6時半。あくびが止まらない。そろそろ寝ようか。そういえば、ペイペイ祭り最終日に念願のYOKONE3を買った。19800円だった。多くのユーチューバーが推薦していたこともあり、以前から欲しかった。奮発して清水の舞台からアルゼンチンバックブリーカーを決められる覚悟で買った。栄養、運動、そして、睡眠。なかでも、最近は睡眠がとみに大切と思っていて、こうした改善の欲求は従来からあったのだけれど、このたび決断した。夜はベッドで寝ようと決断した。そういうわけで、詳細は割愛するが、夜の仕事をひとつやめることにした。プレジデントだったか、なにか自己啓発系の雑誌に哀川翔氏の睡眠に関するインタビュー記事が載っていて、この記事にも影響を受けた。男の仕事は午前中で終わる。午後は趣味に充てる。晩酌は夕刻にはじめる。日が暮れる。さっさと寝ちまう。理想を追い求める姿こそが男の姿だとおもう。
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3月29日 早朝

点と線を読み終えた。今となっては古典的技法、たとえば、錯覚、ミスリード、先入観を利用したトリックだが、1958年当時であれば、これは革命的だったことだろう。ミステリーとしては中編ぐらいか、さほど長い作品ではないが、最終章、三原紀一の報告では推理小説特有のしびれるようなカタルシスを得ることができる。本作は新幹線が開通する以前の、青函トンネルができる前の、かといってもはや戦後ではなく、これからバブル景気にひた走る古き良き日本が舞台である。ある種の世代にとってはこの時期こそを日本近代化のノスタルジーとする向きがあり、それはひとえに高度成長期とのリレーションに帰結する。ノベルズだけかもしれないが、本編の最後に「松本清張の文学」と題し、荒正人氏と尾崎ほつき氏の対談が載っている。点と線が描かれた時代。両氏によると、昭和30年代というのは出版史のなかでも画期的な時期で、新たな読者層が発掘された時代という。書き手にとって、それまで本を読むひとというのはある程度、購買力のある知的な読者層というものが前提となっていた。それががらっと変わりだすのが昭和30年代というわけで、これ以前に脈々と続く、おどろおどろしい非現実な乱歩的世界観から現実に起こりそうな社会派サスペンスへと人気が移行する。この過渡期に当時を過ごした人間ではないが、なんとなく理解できるのは、やはり小説という媒体固有の継続性にあり、読むことによってその継続感を得られるという利点から説明できる。点と線はその一冊となる。昭和35年の初版から10年足らずで1000万部を売り上げた当作品だが、いま手に持っている本の奥付を見ると、182版発行とある。あまり見かけない数字だ。それにしても点と線というタイトルは物語に則したという含意で秀逸といえる。案外、戦時中のプロパガンダに着想を得たのかもしれない。読み終えてみると、推理小説はいくつかのことを教えてくれる。たとえば、こんなこと。思考は現実化するにあったシークエンスだとおもう。以前にもこのブログに記したが、教授と学生が車の後部座席に乗っている。窓の外に黒い馬がみえる。教授は学生に訊ねる。「あれはなんに見える?」「黒い馬です」学生は躊躇せず、瞬時に答えた。教授は首を振る。「違うな。正しくは黒い馬のようにみえる何かをキミは見ているに過ぎない」今回も教訓となった。
posted by せつな at 06:02Comment(0)日記