2月28日 午前中

2月28日ということは今日で2月も終わり。緊急事態宣言発令のなか、あ、という間に終わった気がする。せめて今日は2月の終わりにふさわしい夜にしようというわけで、鳥貴族に行く。そう、今日はにわとりの日でもあるのだ。毎月、ケンタッキー・フライド・チキンもこの日はスペシャルパックを発売する。以前、一度、購入したことがあるのだけれど、普段、あまり食べないので幻想を抱いていた。オトナになって、いろいろな味をおぼえるずっとまえの子どものころの追憶。あつあつのチキンにかぶりついた冬のあの追懐。あのころの追慕にしがみついたまま、時が止まっていたのだった。あつのあつのチキンにビール。たしかにおいしい組み合わせではある。あるのだが、ふぐ刺しとひれ酒とか、カニの甲羅酒とか、和牛でワインとか、最高の組み合わせが世の中に無数にあることを知って、なお、あえて、ケンタッキー・フライド・チキンにビールを合わせる必要もないだろうとものごころついてからはるか昔に感じたにわかな思い。それに唐揚げとビールならニューミュンヘンに尽きるというさんざ身銭を切って築き上げた信条もあった。それがくつがえったのが、いまから何年かまえ、時期は正確にはおぼえていないが、トリキのから揚げに出会ったときだった。レモンも付け合わせの野菜もない、ひじょうにシンプルな一品。この味と金麦のメガジョッキを合わせたとき、たしかに閃光が走った。それはまぶたの裏だったかもしれない。脳を突き抜けたのかもしれない。耳をつんざいたのかもしれない。鼻にツーンときたのかもしれなかった。あれから何度、この組み合わせに至福を見出したか。一度、売り切れだったこの間を除き、鳥貴族でから揚げを頼まない日はない。まず、から揚げを注文しておいてからメニューを眺める習慣がついている。一度、さんざん飲み食いしたあと、締めに近所の鳥貴族に立ち寄ったことがあり、そのときにおなかはいっぱいだったが、しきたりのようにから揚げをぽちった。やがて、やってきたそれはいつもの麗しい容貌で、ぜんぜん湯気だっていないのに、ひとくちかぶりつくともわもわっと蒸気が飛び出す例の魔法の逸品なのであった。口に含んだそれは平常の変わらぬトリキのから揚げだったはずが、あれ、とおもった。その、あれ、は何を意味していたか。大阪弁でいうと、からっ。東京弁では、しょっぱ。東北弁ではおそらく、しょっぺ。イッツトゥーソルティ。異様に塩辛くかんじた。それはさんざん飲み食いした連れ合いも同様の反応で、あれ、こんなに塩辛かったっけと互いに疑問符を浮かべたのだった。トリキの料理は全体的に味が濃いというのはいまやマニアの常識だが、トリキのから揚げを最高の状態で楽しみたかったら口開けの酒にかぎる。鳥貴族を何件目に使おうが、もちろん、個人の自由だが、から揚げをいただくなら1件目。というわけで、今日の夜はトリキではじまるのだった。寝て起きたら3月だ。
posted by せつな at 08:19Comment(0)日記

2月27日 早朝

明日で大阪府の緊急事態宣言がおわる。来週からこれでようやくゆっくりと外食することができる。アルコール提供が7時終了では多くのひとは家呑みするしかなかっただろう。かくいう自分は呑み始めるのが割りと早い口で、呑む速さもけた外れなので、呑み始めの17時から2時間で泥酔にいたることができる。釣りバカにこんな格言がある。3時間楽しみたかったら酒を呑みな、3年楽しみたかったら結婚しな、一生、楽しみたかったら釣りをおぼえな。この格言が示すように楽しく過ごせる飲酒時間を数字で表すとだいたい3時間ぐらいが目安となる。それを過ぎると、悪酔いとか二日酔いとかあまり耳障りのよろしくない状態が待っていたりする。正常な状態から酔いつぶれるまでに至る度合いがひとによって違うことからこれを指して酒量と呼ぶが、もっとふさわしい言葉はないだろうかと探してみると、酒漢などどうだろう。あいつは酒漢が多い。あいつは酒漢が少ない。なかには腰を据えて呑むというひともいる。こういったひとに3時間ルールは通用しない。とにかく長丁場の酒。中島らも氏の「せんべろ探偵が行く」のなかで、あるタクシー運転手のエピソードが出てくるが、このひとの休日は酒と共にある。「そうですなあ。腰をすえて飲んだら二升五合はいきますなあ」「それは何か食べながら飲むんですか」「いや、瓜の塩漬けくらいです。これは酒にいいので私が庭で作ってるんですよ」二升五合の日本酒をどれぐらいの時間をかけて呑むのかはわからない。わからないが、3時間でないだろうことは想像がつく。床にあぐらをかいて、瓜をつまみ、コップ酒を呷る。ひたすら呷る。グルメな酒ではない。女っ毛もない。ただ、情緒はある。大阪市内の歓楽街は引き続き、今度は9時までの時短要請となるが、客にとって飲食店の営業時間は長ければ長いほどありがたい。そういった願望が外食産業イコールブラック企業の図式を生んでしまったことは事実だけれど、長いほうがありがたい。コロナを機にこうした考えも変わっていくのだろうか。
posted by せつな at 06:40Comment(0)日記

2月26日 早朝

最近の世間の流れとして、あだ名禁止というものがある。以前、ワイドナショーでも取り上げていて、偶然、観ていたのだけれど、実際にインタビューを受けていた小学生の話を聞くと、納得のいくものだった。その小学生はひとつ前の学校で容姿をいじられ、チビとあだ名で呼ばれていた。あだ名禁止の学校に転校すると、下の名前で呼ぶのもダメで、君付けもダメ。基本は苗字にさんをつけて呼び合う。前の学校で感じていたストレスが一気になくなったという。あだ名で呼ぶ側と呼ばれる側では当然、感じ方がちがう。仲良くなるためによかれと思い、つけたあだ名がブタゴリラだったら現代社会では立派なイジメとして認定されるだろうし、よかれとおもってつけたあだ名、ナイスガイエディが勝手にひとり歩きをはじめ、勝手に勘違いされることもある。あだ名を紐解けば、それはいかなる時代から通用したのか、ちょっと定かではないけれど、秀吉はサルと呼ばれていたし、もっと古い文献を当たれば、もっともっと古い時代にはそういった文化が根付いていたのかもしれない。あだ名でぱっと思いつくのは太陽にほえろという昔の刑事ドラマだ。いまも日曜日の11時半からサンテレビでやっていて、たまに思い出したようにチャンネルを合わせてはラストのチャーララーンチャーララーチャーララーンというメロディが流れるまで観たりする。このドラマでは新たに七曲署に配属された新人にボスがあだ名を命名するという慣習があり、思い出せるだけ列挙すると、マカロニ、ジーパン、ラガー、スニーカー、とかで、いま思い出したが、あだ名は新人だけではなかった。ゴリさん、ヤマさん、殿下とかいた。ちなみにゴリはゴリラのゴリではなく「バカヤローごり押しのゴリだい」とマカロニの質問を受けて、言い放つシーンがあると青汁のCMで竜雷太さんがいっていた。あだ名禁止について論争が巻き起こっている。愛称と蔑称。個人的にはあだ名などなくてもいいとおもっている。だって、名前があるのだもの。
posted by せつな at 07:05Comment(0)日記