9月30日 朝

今朝、テレビのワイドショーを観ていたら「郵便ポストにコーヒー」というトピックスがあった。最後まで観るのはめんどうなので、調べると、そのまんまというか、見出しで解説が済むひじょうにわかりやすい事件だった。被害に遭われたひとの封筒は茶色く変色していたという。こういった愉快犯の犯行というものは以前から多くのひとに指摘されていたようにおもうが、なぜいままでほったらかしにしているのか、今更ながら疑問にかんじる。自販機のつり銭口もそう。自販機の場合はすべてスマホ決済にしてしまえばいい。そうすればスマホを持たないジジババもいなくなるかもしれないから一石二鳥で一挙両全となる。そのうえ、現金輸送や勘定の手間もなくなり、防犯上の問題も解決するし、セキュリティ費用も節約できる。メリットしかない。今回の郵便ポストの事例は挙げれば多々あるアナログの弊害に一石を投じるものとならないだろうか。郵便ポストだけでなく、自宅の郵便受けもさっさとなくすべきだ。マンション下のポストもいらない。玄関ポストもいらない。無用の長物とはまさにこのことで、あるだけ邪魔というか、DMの宝庫というか、なくしてしまえば却ってすっきりする。必要なものは宅配ボックスに入れてもらえばいいし、不在票は注文時のメール明記を徹底し、宅配業者もそちらを利用すればいい。郵便受けがなくなって困ることは果たしてあるだろうか、といくつか思い浮かべてみて、そのすべては代替できることにも気づいた。防犯的にも郵便受けは危険な存在になりうることを改めて認識した。デジタル庁の創設によって、まず、あるべき姿はなくすべきアナログを列挙すること。自宅郵便受けはその筆頭となるが、お上の手を煩わせるほどのことでもないし、個人で撤去すればいい話なのだけれど、その考え方と仕組みの世間への浸透はやはりお上の仕事だろう。街角の郵便ポストについては防犯カメラをつけるには膨大すぎるし、まず、第一に考え得る方策としてはポストにコーヒーを入れた奴は極刑に処すればいい。それが無理なら厳罰化して罰金100億ぐらいにすればいい。それだけあれば被害者への賠償に充てられる。払えなければ極刑にすればいい。さらに、そうした法的な対応を土台に郵便ポストの物理的構造と概念にわけて考察してみる。構造的には登録制の指紋認証か、マイナンバーカード等で開閉するようにできないだろうか。整備されていないところでの投函は自己責任で。概念的にはもうポストの運用をやめる。紙の文化をなくす。こっちのほうが手っ取り早い。
posted by せつな at 09:57Comment(0)日記

9月29日 朝

西向く侍。9月は30日までなので、え、もう明日で終わり。息つく暇もない全力で駆け抜ける毎日が続いているが、竹原ピストル氏が歌うように、人生、あ、という間ぐらいはあるので、まあ、あせることはないとおもう。映画めがねでもあずきを煮るシーンでもたいさんがいってる。「大切なのはあせらないこと」されど、昨日は焦った。新しいウォシュレットを取り付け終わるまでに50分もかかってしまった。予定では15分程度だったにもかかわらず、なぜこんなに時間がかかったかというと、やはり取り付けと取り外し方法を忘れていたからにほかならない。同じTOTOのものだからという安心感というか、錯覚もあった。2020年度につくられたものと15年前のものではそもそもの部品が違う。使い回せるかな、とおもっていた部分もすべて交換を余儀なくされた。組み上がってみると、構造はなにも変わらないことも重ねてわかった。忘れていただけだ。こういうことをやりとげると、いつもつくづくおもうのは芸は身を助けるとか、趣味は金を稼げるとか、知識は損失を防ぐとか、技術で金を節約できるとか、といった常套句で、イカとかアジをさばいて刺身を造っているときとかもよく思い浮かぶ。今回のウォシュレットの交換にしても業者に頼むと10000円ぐらいかかる。慣れれば10分で終わるような作業、しかも部品は付属しているにもかかわらず、1万も工賃を支払うのは愚の骨頂にしかおもえないが、わざわざ明記しているところをみると、注文は絶えないのかもしれない。先日も朝日新聞だったとおもうが、コロナ禍で収入の途絶えたひとが自分の特技を活かしてそれで食いつないでいるという記事を見た。特技というと難しいイメージがつきまとうが、その記事のひとは料理と掃除を他人宅ですることで収入を得ていたと記憶している。時間がなくて掃除のできないひともいるし、そもそも片付けが苦手というひとは世の中にごまんといる。スキルを高めたいとおもう。医者になりたい、弁護士になりたい、パイロットになりたい、船も動かしたい、バスも動かしたい、バイクでサーキットデビューしたい、建築士になりたい、大工になりたい、整備士になりたい、栄養士になりたい、プログラムを組みたい、外国語をおぼえたい、フランス料理に精通したい、フグをさばきたい、ショパンを弾きたい、ワインを浴びるほど呑みたい、ビールも呑みたい、日本酒も呑みたい、あれ、なんか変わってきたぞ。しかし、これは夢ではない。目標ですらない。単なるスキルアップ。そう考えると、フットワークも軽くなるというものだ。あらゆる技術力はあらゆる困難を帳消しにしてくれる。逆に困難がひとを鍛えるのかもしれない。今は絶好のチャンスだ。
posted by せつな at 06:28Comment(0)日記

9月28日 朝

半沢直樹が終わった。どうもすっきりしない最後だったようにおもう。1000倍返しにしては物足りないような。それでもやはりおもしろかった。最後の大和田との対峙は胸を打った。誠実と正義の花言葉のシーンには涙ぐんでしまった。誠実と正義。人生において重要なふたつの言葉。誠実であれ。正義を忘れるな。半沢直樹はいわゆるバブル世代のひとであり、原作ではこの世代の多くのひとの心に共鳴したと聞く。バブル世代を紐解くと、年齢的には2020年現在、だいたい50代半ばのひと、57、8歳ぐらい。ということは半沢直樹もいまではこれぐらいの年齢に達している行員のひとり。それで、ふ、と思いだしたのだけど、よくバブル世代とロスジェネの比較で取り上げられる起業家がふたりいた。すなわち、楽天の三木谷氏とサイバーエージェントの藤田氏。65年生まれの三木谷氏がいわゆるバブル世代で、73年生まれの藤田氏がロスジェネ、いわゆる団塊ジュニア。比較の結果はあまりおぼえていないが、ある起業コンペティションの授賞式のあと、三木谷氏がタクシーで、藤田氏が電車でそれぞれの会社に帰宅したというエピソードだけ強くおぼえている。売り手市場だったバブル世代は内定の囲い込みでハワイ旅行に行ったとか、とかくゴージャスな逸話ばかりを聞いたものだったが、やがてそのバブルがあっけなく崩壊する。バブル経済のひずみの結果、大量に投資された反動で大量の不良債権を出したのと同様、この世代がまっさきにリストラの矢面に立った。俗称、追い出し部屋と呼ばれた地下倉庫等に出社し、定時がくるまでそこで待機したり、肩を叩かれ、人事部へ連れていかれると、理不尽なまでの対応をこんこんと迫られたり、ごくつぶしと揶揄されたりもした世代。一見、華やかでしたたかにみえた世代もその後は地獄をみた。半沢直樹への共感はそういった不合理な日本社会、企業文化へのまっとうな反応に対するシンパシーなのだと感じる。この世代の特徴としてひとついえるのはなかなか会社を辞められない世代というか、会社ありきで前を向けない世代というか、肩書がそのまま会社名になってしまう世代というか、とにかくこの時代、この時期のサラリーマンには一生、同じ会社の釜の飯を食うというような、いい意味で覚悟、悪い意味では依存するような雰囲気があった。いっぽうでその帰属意識には頭が下がる思いもある。終身雇用、年功序列、転勤、サービス残業。昭和を引きずった最後の世代かもしれない。
posted by せつな at 07:57Comment(0)日記