7月31日 朝

7月中の梅雨明けはなかったということか、今日、発表されるのか。コロナ禍も明ける見込みもなく、身近なところにも感染が広がってきた。いつになることやら。新聞を読んでも暗い気分にしかならない。ならば、と番組欄を隅から隅まで眺めてみると、昔の年末年始とか4月、10月の改編時とかの装いだ。時間も中途半端でよくわからない。そんななかにあって、昔ながらを貫く局がふたつある。サンテレビと京都テレビだ。きっちり1時間、30分、45分等の刻みかたでテレビ欄が成り立っている。民放で必ず観る番組といえば、アタック25しかないが、これもちょっと独特で25分にはじまるのだけれど、ぴったり25分にははじまらない。だいたい25分30秒ぐらいの感覚ではじまる。これは俗にいう遅発早着的発想にちがいない。25分台にはまるまる1分の猶予があり、テレビ欄は別にうそをいっているわけではないのだ。しかし、このせこせこ感がいやしいというか、せせこましいというか、25分ジャストにはじまると思ってテレビをつけたら30秒間コマーシャルを見せつけられる。この手法はほかにもあって、番組がはじまったとおもったのもつかのま、1、2分でコマーシャルに切り替わり、延々と3分か4分にわたってそれが続く。土曜日のウェイクアップなどが顕著な例だ。洗脳的やりかたもよくある。映画などがそうで、最初はまったくCMが入らないのに最後のほうになってやたらめったらいれてくるパターン。悪くいえば覚醒剤的手法といっていい。すっかりはまったころに手中におさめるというあしき方法。なんだかんだテレビを観ているのだなあとおもった。テレビ欄を見ていると、ほかにもその時代、時勢のトレンドが読み取れる。別段、番組を視聴しなくともテレビ欄の見出しと、なんとなくネットの情報と照らしわせることで、匂いとか空気感が伝わってくる。いまはこれなんだ。いまはこのひとなんだ。そんな感じ。ビートたけし氏は自分でテレビ欄を作成していたが、やっぱりテレビ屋だなあと感心した。昔の新聞を図書館等で閲覧して、テレビ欄を見るのもおもしろい。出演者のほとんどがもういなかったり、寂しいこともあるけど。
posted by せつな at 07:17Comment(0)日記

7月30日 午前中

起きたら9時を回っていた。急いで朝食の準備を整えた。うなぎも食べた。最近、あまり食欲がなくて、なんだったらおいしくいただけるだろうと考慮したすえ、うなぎを購入したのだけれど、おいしいと感じるのは味噌汁だけ。たぶん、毎晩、呑みすぎているせいだからだとはおもうが、ミルクシスルのおかげか、体調は悪くない。これで毎日エブリデイジム通いを続けているので痩せていくばかりなのだけれど、酒を呑むと中性脂肪に変わる。ワイン、ビール、焼酎、ウイスキーの区別なく、酒はすべて中性脂肪に変わる。エンプティ―カロリー?関係ない。プリン体ゼロも中性脂肪に変わる。一日、焼酎を一本ぐらい呑んでいるのでその中性脂肪が半端なく、いつのまにか皮下脂肪に蓄えられて、おなか周りがさすがにまずいことになってきた。アブドミナルクランチとロータリートルソーだけでは保てない。アブローラーをふたたび習慣化するときがきたのかもしれない。もうきっと、認めたくはないが、やっぱり、というか、中年なのだろう。かといって少年に戻りたいかというとそうでもなく、あの息苦しい季節の青春の涙はもういらない。それで、ライフワークでもある作詞についてなのだけれど、昔の作品を改めて読み返すと、そこにあるのは主張ばかりで、小説にたとえるとこれは私小説に当たる。もちろん自らの主張がなくなるわけでもなく、生きているかぎり何かしらのアウトプットは続くのだが、これでは詩の世界が広がっていかないというのも長ずるにつれて痛感している。そもそも昔のような主義主張もない。人生あるがままなり、だ。打開策として、シーンのトップをひた走るようなアーティストの詩を研究してみたり、竹原ピストル氏のあの独特の逆説的詩の世界をのぞいてみたりすると、ひとつの法則がみえてきた。小説にたとえると、これはエンタメ小説だ。一見、私小説にみえるスタイルでもほとんどはエンタメであり、ミステリー、ジュブナイル、クライム、ロマンノワール、ピカレスク、コメディー、アクション、ロマンス等の独自世界を創造構築することで成り立っていることがわかる。小説、論文、ブログはパソコン。作詞はシャーペンでノートに書くスタイルが変わることはないだろうけれど、というか、変われないのだけれど、一回、作詞をパソコンで入力してみたらどうだろうか、ひとつのストーリーとして、などと可能性を模索してみよう。
posted by せつな at 09:53Comment(0)日記

7月29日 朝

肉の日だ。年に12回ある肉の日のなかでも7月と8月は特別感がある。なぜなら、暑くて夏バテするからだ。なんというわかりやすさだろう。夏バテには肉。なかでも焼肉。じゃあ、今日は焼肉に行くかというと、たぶん昼はそうめんだとおもう。肉はパワーを享受すると同時にパワーを消耗するのだ。肉といえば、庶民の、肉、の代表格吉野家がコロナ禍に苦しんでいる。かつては狂牛病で苦しみ、消費増税で苦しみ、人件費増と材料費増で苦しみ、今回は最大150店舗の閉鎖もありうるという。庶民の味方、吉野家の牛丼を最後にいただいたのはおそらく去年の今頃だったような気がする。タンクトップで牛丼並をかっこんだ記憶がある。紅ショウガをこれでもかと載せ、身体のために一応サラダと味噌汁もつけて、いただきまーすとわしわしと食べ進んでいくしあわせは牛丼ならではもので、焼肉やステーキにこうした喜びはない。ひとによっては同じ喜びを見出し、ごはんを頼むかもしれないが、相当の酒飲みは焼肉にビール、ステーキにワインが通常で、そのまま呑み進め、ごはんにたどり着くまえに三件目で潰れてしまう。吉野屋で潰れることはない。吉野屋が潰れることもない。なんとか踏みとどまってⅤ字回復をとげてほしいものだ。jcomの「高校球児 がんばって」の口調で吉野家さんがんばってと皆で叫ぼう。肉料理といえば、ほかに思いつくのはしゃぶしゃぶとかローストビーフ。レアなところではシュラスコとか、国によってはメジャーかもしれないが、日本ではほかにケバブなんかもイベント以外ではなかなかいただく機会がない。書いていて気づいたのだけれど、肉の日の、肉、というと、なぜ、牛肉ばかりが思い浮かんでしまうのだろう。肉、なのになぜか、鳥や豚や羊の発想がない。ケバブもドネルケバブを思い浮かべていた。以前ももしかすると当ブログで取り上げたかもしれないが、外国人が日本にきてとまどうのはそのあいまいさにある。日本人であれば、なんとなく小さいころからのイメージで想像できるのだけれど、この想像も日本人同士のなかでたまに食い違うほど難しい。焼肉といえば、牛肉をメインに考えてしまうし、焼き鳥のメニューにガツがあればそれは焼きとんで、焼き豚といえば、チャーシューで、ああ、ややこしくなってきた。肉のよさはその単純さにある。たまの京料理もいいが、今日は肉の日。単純にいこう。
posted by せつな at 08:02Comment(0)日記