5月31日 午前中

冷蔵庫の設置も無事おわり、ソファも届いた。古いソファの処分日がまだなので配置はできないのだけれど、とりあえず隣の部屋でくつろいでいる。準備オーケー。5月も残すところ本日のみとなった。5月31日といえば、思い出深く、タスポ開始の前日、世界禁煙デーのこの日にタバコと決別した。やめて気づいたのはその快適さで、多くの時間を取り戻したのとキレイな部屋を手に入れたことを考えると、ありきたりだが、卒煙して本当によかった。二度と近づかないでね。世界禁煙デーに合わせて日本でも毎年さまざまな取り組みがされている。「健康寿命をのばそう」と題した特設サイトが今年は公開されており、望まない受動喫煙に関しての注意喚起とか解説とかあるので興味のあるかたはぜひ。喫煙者に対しては最近はごきぶり以上に毛嫌いしていて、ほんまにスリッパで叩き潰したくなるのだけれど、日本の対応はまだまだ甘いとおもわざるを得ない。四月以降、いまだ店外に灰皿を設置しているコンビニもみかけるし、いまだ歩きたばこをするアホもいる。除菌度でいえば、ごきぶり以下だろう。欧米に目を向ければ、喫煙者はごきぶりだという認識が世界に広まる日もそう遠くないとおもえるのだけれど、いざ、日本を見渡せば、寛容というか、手ぬるいというか、緩慢というか、はっきりいってやる気がない。やる気がなかった。これは多分に自民の喫煙連のせいだが、少なくとも、今般のコロナ禍は追い風になるはずだ。マスクを外して、喫煙という行為ほど周りの目をとがらせるものはない。敷地内禁止ではなく、屋外禁止という措置をとっとと実施し、喫煙ブース以外はダメだという法律をはやく施行してほしいと切にねがう。とまれ、コロナによる衛生意識の高まりと明日から本格化する新たな生活様式が喫煙者の首をじわじわとしめつけることだろう。今朝の新聞各紙の一面のほとんどを米国のWHO脱退が飾ったが、これは全世界を通じて、新たな生活様式を象徴するできごととなる。もはや旧態依然とした組織、思考、習慣では人類はもたない。ウイルスが転機となった。
posted by せつな at 09:27Comment(0)日記

5月30日 朝

朝日新聞を読んでいて、なにが楽しみかというと、オピニオンのページだ。かつて赤井報道(のりみち)も載ったあの投稿欄。すさまじいバイアスというか、だいたい極左のジジイババアが多いのだけれど、このあいだは朝高生の(17歳だったか)の少女の主張もあった。なぜ在日にはなんかが配られないのとかそんなので、支援金か義援金か助成金か忘れたが、なんか、はカネのことで、要はカネをよこせというものだった。今朝は今朝で、あるジジイさまが「なにが日本モデルだ、日本政府が成功したわけじゃない、外国では奇妙とか奇怪とかなんとか」かんとか、そんなかんじで吼えていて、日本政府の成果をかたくななまでに認めようとしないその態度はプロフェッショナルだった。しかし、退屈な意見だ。ともあれ、国民の不断の努力、日本政府のリーダーシップ、各自治体の対応が功を奏したのは収束した現状を鑑みれば、まぎれもない事実であり、大勢の日本人、日本に暮らす外国人を含め、一体感を感じざるを得ない。緊急事態宣言、緊急事態措置、外出自粛。どれかひとつかけても、早期の解除は得られなかった。これは諸外国の例をみれば明らかだが、どれか、ひとつが、かけていたから、感染拡大をまねいたともいえる。具体的にいうと、ブラジルの場合は国と知事が対立軸にある。米国の場合は自粛要請に従いたくても呼応できない職種のひとたちの間で罹患者が増え続けた。一見、成功したかにみえた南コリアの再発はトップがバカだった。強制力の強弱でいえば、日本は最弱だったにもかかわらず、国と自治体と国民が一丸となって、強い民度を示せたことが好成績につながった。これは日頃の鍛錬のたまものであり、有権者が一票を投じた行動がいまの行政府と立法府に結実するわけ。相関性を改めて見直してみると、朝日に駄文を寄せたジジイさまの言い分はすべて、およそすべて、ほとんどすべて、的外れということになる。日本政府が成功したわけであり、日本国民が成功に寄与したのであり、日本国民が成功し、日本政府が成功に寄与したのだ。
posted by せつな at 09:32Comment(0)日記

5月29日 午前中

今朝、おもしろいトピックスを見つけた。米国ではすでにマスクをつけているひとが激減しているとかで、ビーチに遊びに来ていた二人組にその理由を聞くと「大丈夫、神が守ってくれるから」と回答――というものだった。どーんときた。グリーンデイのアメリカンイディオットが爆音で鳴り響いた。まさにこれこそが神の存在価値、存在意義なのだ、と感じた。かつて、ニーチェはこれをルサンチマンと名付け、キリスト教批判の中心概念におき、弱者の強者に対する妬みや嫉みからキリスト教は誕生したと位置付けた。つまり、我々は現在、まずしく弱々しいが、心は清く、いつか天国に迎えられるのは自分たちである。翻って、金持ちどもは心が汚く、いやしく、貪欲であるから神から嫌われている。よって、現世で恵まれているからといって決して彼らのまえに天国の扉が開かれることはないだろう、と。キリスト教の本質はルサンチマンから生まれたねじ曲がった弱者の願望であり、現世において強者は悪。弱者こそが善と決めつけるところにあるとニーチェは切ってみせた。そのニーチェの批判精神はその後の日本の、その後のぼくに受け継がれる。中東諸国でも神に祈ってクラスターを発生させたバカがいたが、宗教ってバカの集まりであり、そのバカを尊ぶバカが都合よくすがるものと定義づけると、科学的根拠という宗教よりは信頼に値する日本のコロナ対策にいちゃもんをつけたくなる心理がなんとなく理解できる。だって、バカだから。かといって、自分が無神論者かといえば、そんなことは露ほどなく、神道、神社仏閣をこよなく大切にするこころを持ち、いまも畏怖と敬愛の念を以て参拝をつづけている。しかしながら、たとえばコロナ禍の最中にわざわざ密集を発生させに足を運ばないし「予防対策なんてしなくても大丈夫。なぜなら、神がぼくを守ってくれるから」などと決していわないし、自分の唇にいわせない。マスクをつけろ野蛮人。土足で上がりこむな土人。おじぎをしろ、しゃべるな、触れるな、拡散すな。
posted by せつな at 09:32Comment(0)日記