4月30日 朝

今日で四月も終わり。当たり前だが明日から5月。されど、この当たり前がうれしい。当たり前の日常。当たり前の毎日。生きるとはそういう喜びの積み重ねなのだろう。この喜びをパチンコに求める輩がいて、営業を続ける店舗に行列をなしているという。あるパチンカスはいった。「覚悟、決めてるから」あるパチンカスもいった。「コロナにかかってもいい」そして、あるパチンカスはこうも言い放った。「おれは若いから大丈夫。お年寄りは気をつけて」誰もかれものツッコミどころを具体的に表現すれば「おまえなど、どうでもいい」おまえがうつすかどうかが問題なのだ、ということになる。エボラの罹患者が人知れず焼かれたように現実的には火炎放射器がふさわしいのではないか。9月入学、マスク配布、緊急事態宣言延長、と、だいたいこのあたりの話題で日本中が息巻いているが、世界に目を向けると、感染者が300万人を突破した。そのうち、米国だけで100万人。最初のころ、ダイヤモンドプリンセスの対応を批判していた米国人たちはいまごろどのような感想を抱いていることだろう。自分たちがバカだった。自分たちはバカだった。原爆は人類における最大の犯罪です。素直に認めます。かような米国人はおそらく皆無だろうから、言い訳に終始するのだろう。そういえば、昨日、ICカードリーダライタが届いたので、さっそく試してみた。とりあえず動作したのでよしとしよう。備えあれば憂いなしとはよくいうが、日ごろ、何も備えていない連中にかぎってパニックを国にぶつける感がある。たしかに備えを想像力の産物と捉えれば、むずかしい側面はあるが、当たり前の暮らしを続けるための教訓はいたるところに転がっている。要はそれを拾うかどうか。気づくかどうか。じんかん、いたるところにせいざんあり。これは海を飛び越えてもおなじ宿命をたどる。もう今では義援金が配られるのが当然という風潮で、一部のフリーランスのひとたちは現状を知ってほしいと世間に窮状を訴える始末だが、その世間だって疲弊しているのだ。基本は独立不羈の気構えで、この逆風を乗り切ったると肩ひじ張るのがいまさらながら最良の選択なのだ。なんだっていい。自分を救うのは他人ではない。自分だ。
posted by せつな at 07:30Comment(0)日記

4月29日 朝

いつのまにかゴールデンウィークに突入していた。例年ならば、札束が乱れ飛ぶ成田空港から衝撃的な数字が伝わってきた。なんと出国旅客数が前年同期比98.3%減というすさまじい事態に陥っている。そらあ激減するやろなあとはおもっていたが、やはりゴールデンウィークなのだという思いもどこかにあった。旅行している場合でも観光しているときでも湯舟につかっている折でも沖縄でゴルフに勤しんでいる頃でもない。コロナなのだ。世間は。と頭では理解している。ふいにスタクラのノーキディングという歌をおもいだした。「さつきーばーれのゴールデンウィークはあ、海外旅行に湯けむりめーぐりー」しかし、歌詞の主人公のゴールデンウィークはこんな感じではじまる。「電話を取ればいたずら電話で、ポストをみれば不幸の手紙さ」時代がかっているので、現代風にアレンジすると「電話に出れば振り込め詐欺で、ドアホン取ればエホバの証人」といったかんじだろうか。これも違う気がする。「サイトを開けばブラクラ祭り、スマホを落とせばストーカー祭り」かような混乱のなか、ゴールデンウィークを迎えた気がする。とにかく世界は暗闇のなかをさまよっているさいちゅうで、日本は緊急事態宣言のさなかなのだ。改めて自覚しました。昨日、某ダイソーに出かけるとマスクが売られていた。せっかくなので7枚入りブラックを買った。あと、3枚入りが10枚ぐらい残っていた。ふ、とすれ違うひとのかごを見ると、30枚入りの懐かしいおなじみのダイソーマスクが入れられていて、そういえば、これを目にしなくなって、もう2か月以上経つのだなと感慨深かった。そろそろ市中にマスクが供給されるのだろうか。今朝、たまたまテレビをつけると、たぶんダーウィンがきた、とおもうが、エチオピアオオカミの生態を映し出していた。母オオカミが獲物のオオタケネズミをとらえ、子オオカミに与えていた。オオカミ側からみればほほえましい親子物語かもしれない。されど、獲られる側はたまったものではない。そう、大切なのは目線なのだ。ヒグマ目線とヒト目線とか。いろいろな感情が渦巻くゴールデンウィークの船出なのでした。
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4月28日 朝

母の誕生日だ。76才になる。結婚記念日でもある。こんな時節だが、ささやかなお祝いをしようとおもう。いつになれば収束するのか、いまだ先が見えないので、制約のある毎日にあっても今の暮らしを大切にするしかない。毎晩、酔っぱらっているが、そういえば昨夜の記憶がない。こんにゃくを食べたような気もするし、食べていないような気もする。締めにオートミールを用意していたのだけど、それもどうなったのか覚えていない。その後、でかけて今に至るのだけど、しっかりと意識があるのは今だけだ。24時間、生きている、と実感する瞬間だ。かつて、偉人はいった。人種、容姿、門地を選ぶことはできないが、たったひとつ平等なものがある。それが時間であると。どのような職業のものであれ、時間だけは24時間を分け隔てなく与えられている。時間をどう使うかで、過去と他人は変えられないが、自分と未来は変えられるのだ。鉄鋼王カーネギーは若き日々を貧しい不遇の時代として過ごした。だが、彼はあきらめなかった。あきらめるもなにも、なにひとつはじまっていないのだから、当然だったかもしれないが、昼間は生活のために働き、夜間を学びと人脈形成の時間に当てた。いつまでも同じ日々が続くはずがなかった。やがて、身を起こし、一代で巨大帝国をつくりあげた。彼は成功者とよばれた。それも比類なき成功者だった。彼がしたことはただひとつ。時間を有効に活用した。無駄を省き、人生を濃縮なひとつの実験場としてとらえた。時間活用については学ぶべきことが多い。一時期はそんな本ばかりをむさぼるように読んだ。効率についてひたすら考えた。能率学の学位も取得した。なにも持たざる人間にとって唯一の味方は時間だった。社会に飛び込むということはひとと打ち解けることではない。どうやってこの短い時間で最大限の効果をあげるか。昔は喫煙者だったが、東野圭吾の本を読んで、やめた。一本、吸い終えるまでにかかる数分の積み重ねが無駄とさとった。酒もやめたが、パーカーの本を読んで、復活した。酒を呑む時間をなんとか有効活用しようと配信することにした。 ギターを弾き、歌の練習をする時間。小銭を稼げればそれでいい。食生活の見直しも日課になった。その結果、味覚は優先順位でいくと、5番目ぐらいとなり、ボディビルダーではないが、晩酌以外は食べるというより、入れるといった感じだ。外出自粛のこの時期だからこそ、改めて時間について考えた。自宅で過ごす時間を活用して、どうやって自分を磨くか。環境を支配するのはいつだって自分だ。
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