3月21日 午前中
毎週、金曜日に聾を扱った番組があって、視野を広げるため、たまに見る。今回はこんなかんじの言葉が響いた。「パズルのピースには欠けている部分があります。私たちにとってこれは聴力です。誰かに埋めてもらわなければなりません。また、パズルのピースには出っ張った部分もあります。自分にしかない出っ張り。これが強みであり、個性であり」というような話で、なるほど、そうなんだよな、人間って。素直に頷けた。これは身障者でも健常者でもおなじ。足りない部分と抜きんでている部分。長じてからいつもおもうようにしていることがあって、これもまったく一緒というか、親からもらったマイナスの部分は補えばいいし、プラスの部分はさらに伸ばせばいい。結局、マイナスなどはなかった。貧困家庭に生まれたならば金持ちになればいい。田舎が嫌なら都会に行けばいいし、都会が嫌なら田舎に行けばいいし、日本が嫌なら外国に行けばいい。太っていたら痩せればいい。学校に行けなかったらオトナになってから行けばいい。スタイルよく生んでくれたらモデルになればいい。いい声ならば歌手になればいい。頭がよかったら弁護士になればいい。バカでもキレイならば女優になればいい。ブスでぶさいくででぶでバカで貧乏で田舎もんでハゲでチビでメガネで外国籍でわきがで猫背で性格が悪ければ、キレイになればいい。整形すればいい。痩せればいい。勉強すればいい。金を稼げばいい。都会に出ればいい。かつらをかぶれ。養毛剤もある。チビなら競輪とか競艇選手もいい。東南アジアに行けば標準だ。コンタクトにすればいい。ルテイン飲め。帰化すればいい。病院行け。背筋を伸ばせ。性格は変えれる。まず、環境を変えろ。東京2020オリンピックは共にパラリンピックの祭典でもある。ハンディキャップスポーツの醍醐味は自分的には競歩のおもしろさに似ている。そうかんがえると、最近、ずっと耳鳴りが鳴りやまず、有毛細胞が壊れて耳鳴り生活がはじまったのだとするあきらめの境地の悲観がどうでもよくなる。これは制約なのだ。耳鳴りは欠けている部分で、これからもっとどこかが欠けて行こうが、そのぶん増やせばいいやと前向きになれる。こんな歌をおもいだした。「年くってはげても日々を笑えるのは一生懸命があればこそ」チャンスを与えられながらむなしく散ったワタナベフラワーの「一生懸命はやめられない」という歌。いい歌だったなあ。ひさしぶりに聴きたくなった。