3月8日 午前中
グーグルを開くと、国際女性デーとあった。だからか、と察した。今朝の新聞に日本の女性の地位が121位で、さらに低下したという見出しがあったからだ。興味深く、詳細はすっ飛ばした。国際女性デーがなぜこの日に制定されたかというと、さかのぼること100年前。1904年のこの日、New Yorkにて女性団体が参政権を要求してデモを起こす。これを受けて、ドイツの社会主義者クララシェトキンがこの日を女性の政治的自由と平等のために戦う日とするよう提唱したことにはじまる――とウィキペディアにあった。昨日のニュースで、去年か一昨年になくなられた緒方貞子氏が世界の100人の女性に選ばれたといっていた。これは女性デーにちなんだ毎年恒例のものだったのだ。緒方氏は尊崇を超越し、まさに日本の至宝だった。あのかたのおかげで国連における日本の地位は倍増したといっていい。もちろん、日本を見渡せば立派な女性もなかにはいるだろうし、これから輝く女性もいるかもしれない。なのに、なにゆえ、これほどまでにバッシングを受ける女性が多いのだろう。ひとつには人権派の存在が大きい。同じ教育を受けたとしても女性のほうがリベラルに傾く可能性の高いゆえん。ひとえにマチズモの数的優位とコンサバへの服従がそう促すのではないだろうか。これは自分の意見でもあるし、スペンサーシリーズのロバートBパーカーの影響でもある。昨今、話題のkutooやmetooに見受けられるパフォーマンスに賛同するひとをみると、その訴えは同性を駆り立て、異性を煽り立て、ときには世論を突き動かすメッセージ性に富んでいると信じ切っているように第三者には映る。ひとによっては、特にメッセージ性を共有する同性にあっては、確固たる信念と映る場合もあるだろうが、多くの信念はいってみれば宗教的眩惑にすぎない。この世は生きにくくて当たり前なのだ。あれはいや、これはいや、といっているつもりでも、聞いている側には、あれもいや、これもいや、にしか聞こえなくなってきたのがフェミニストのここ数十年の姿勢ではないだろうか。今回、はじめて知ったのだけれど、国際的にはこの日を祝日に定めている国がけっこうあって、いずれも途上国である点が見逃せない。なかでもシナ国とマダガスカルの二カ国は女性だけが休日という逆説的な識別背景が垣間見られる。「彼は黒人だけど心はきれいなんだよ」こんなセリフを思い出した。男女平等ではなく、男女同権であるべきだ。