3月22日 午前中

暑さ寒さも彼岸までとはよくいったもので急に暖かくなった。日中はほとんど半そででたまには半パン。そろそろブーツも終わり。やがてスニーカーがゾーリになる。半そでがタンクトップになり、サーフパンツがホットパンツになり、部屋ではボクサーパンツがトランクスに変身する。そのころになるとオリンピックがはじまるはずなのだけれど、本当にはじまるのだろうかと不安な昨今、不安があるのならば払拭すればいい。1997年のこの日、新幹線500系電車が運行を開始した。ヘールボップ彗星が地球に最接近したこの年、待ちに待った秋田新幹線も開業。おもえば日本の鉄道にとって新たな時代の幕開けだった。つい最近。3月8日のことだが、通称カモノハシとして親しまれた700系の引退式がコロナのせいで吹き飛んだ。そのちょっと前には新型車両の完成写真も公開されたし、新たな時代はたえず間髪おかずに訪れるものなのかもしれない。そして、新たな時代にふさわしい新たな時代の令和2年の新たな朝。今朝のサラメシの再放送はまるごと新幹線スペシャルと題したもので、先日も観て泣いたが、さきほども朝食をいただきながらまた泣いてしまったのだった。物語の主眼は新幹線のセキュリティーであり、保安管理の面から三者の視点で描かれている。ひとつめが通称ドクターイエローの点検員の目線、ふたつめが乗務員、みっつめが保線員。三者三様のひたむきな努力によって新幹線の安全安心は保たれている。たったひとつの目的のために多くの人間がかかわり、多くの人間の情熱がたえまなく24時間365日燃え続けることで目的は達成されると改めて思い知った。あるひとはいった。「ゆるんでいないことを確認するのもまた大事で、ゆるんでいることはないが、ゆるんでいると思いこんで確認する」また、あるひとはいった。「1300人のお客様の命を与っているといかにリアルに伝えれるか」さらに、あるひとはいった。「経験工学と呼ばれているように何十万回とレールの音を聞きようやく違いがわかってくる。五感をフル活用してます」日本の新幹線は世界一だ。胸を張って伝えよう。東京オリンピックは必ず開かれる。こちらも胸を張って伝えよう。
posted by せつな at 10:15Comment(0)日記

3月21日 午前中

毎週、金曜日に聾を扱った番組があって、視野を広げるため、たまに見る。今回はこんなかんじの言葉が響いた。「パズルのピースには欠けている部分があります。私たちにとってこれは聴力です。誰かに埋めてもらわなければなりません。また、パズルのピースには出っ張った部分もあります。自分にしかない出っ張り。これが強みであり、個性であり」というような話で、なるほど、そうなんだよな、人間って。素直に頷けた。これは身障者でも健常者でもおなじ。足りない部分と抜きんでている部分。長じてからいつもおもうようにしていることがあって、これもまったく一緒というか、親からもらったマイナスの部分は補えばいいし、プラスの部分はさらに伸ばせばいい。結局、マイナスなどはなかった。貧困家庭に生まれたならば金持ちになればいい。田舎が嫌なら都会に行けばいいし、都会が嫌なら田舎に行けばいいし、日本が嫌なら外国に行けばいい。太っていたら痩せればいい。学校に行けなかったらオトナになってから行けばいい。スタイルよく生んでくれたらモデルになればいい。いい声ならば歌手になればいい。頭がよかったら弁護士になればいい。バカでもキレイならば女優になればいい。ブスでぶさいくででぶでバカで貧乏で田舎もんでハゲでチビでメガネで外国籍でわきがで猫背で性格が悪ければ、キレイになればいい。整形すればいい。痩せればいい。勉強すればいい。金を稼げばいい。都会に出ればいい。かつらをかぶれ。養毛剤もある。チビなら競輪とか競艇選手もいい。東南アジアに行けば標準だ。コンタクトにすればいい。ルテイン飲め。帰化すればいい。病院行け。背筋を伸ばせ。性格は変えれる。まず、環境を変えろ。東京2020オリンピックは共にパラリンピックの祭典でもある。ハンディキャップスポーツの醍醐味は自分的には競歩のおもしろさに似ている。そうかんがえると、最近、ずっと耳鳴りが鳴りやまず、有毛細胞が壊れて耳鳴り生活がはじまったのだとするあきらめの境地の悲観がどうでもよくなる。これは制約なのだ。耳鳴りは欠けている部分で、これからもっとどこかが欠けて行こうが、そのぶん増やせばいいやと前向きになれる。こんな歌をおもいだした。「年くってはげても日々を笑えるのは一生懸命があればこそ」チャンスを与えられながらむなしく散ったワタナベフラワーの「一生懸命はやめられない」という歌。いい歌だったなあ。ひさしぶりに聴きたくなった。
posted by せつな at 09:32Comment(0)日記

3月20日 午前中

羽賀研二氏の新潮の告白記事を読んだ。結論からいうと昨日のブログとは違った印象を抱いた。もしかしたら逆転無罪の可能性もあるのではないか、と。しかし、これも人たらしのなせるわざかもしれない。起訴内容の真相もさることながら、もっと興味をおぼえたのは刑務所での暮らしぶりのほうで、服役して6年の歳月を芸能人ということで甘くみていた。壮絶かつリアル。以前、ミュージシャンのヒロト氏がラジオで語っていたが「犯罪しなくてよかったな」というひとことに尽きる。刑務所という閉鎖空間においてこそ人間関係が重要で、告白記事を読んでいていろいろ参考になった。起きてから寝るまでひたすら着座の懲罰など考えただけで憂鬱になる。自由とは案外、身近なところにあるのかもしれない。昨日、19日は千葉県野田市の虐待事件の判決もあった。一審は懲役16年。虐待事件に関する判決では異例の長さだという。今朝の新聞記事に実際に裁判員を務めた30代男性のコメントが載っていた。「虐待?」憤りと悲しみにあふれる素直な感想で、勇一朗被告は自分のために涙を流しているのではないか、とこちらも辛らつな意見だった。今まで知らなかった事実も今朝の記事で知った。泣いてしまった。今回の事件でもっとも注目すべき点は本人がまわりのオトナに救済を求め、何度も訴えかけたにもかかわらず、その声の重みが理解されなかったことだ。児相の職員や市教育委員会にいたっては自称父親の剣幕に負けて、責任を放り投げてしまった。もっといえば売り飛ばしてしまった。びびってしまった。怖かった。当たらず障らず。穏便に。消極的に。事なかれ事なかれ。くわばらくわばら。他人の子どもの明日より自らの今日が大切だったのだろうが「先生、どうにかできませんか」このひとことを一生、抱えて暮らせ。被告に対しては、先の羽賀氏の告白にあるように刑務所ではいじめぬかれるだろうことが容易に想像できる。怯えてそのときを待て。あとは兵庫県知事はやはりそうなのかやはりなそうだろうなとおもっていたら、やっぱりアホだったというニュースに接してほっとしている。
posted by せつな at 10:34Comment(0)日記