12月21日 午前中

駆け込みで間に合った。でも疲れた。いつもぎりぎりだ。でも、いつも間に合う。石橋を叩いて渡るひとがいる。石橋を叩いて渡らないひともいる。石橋を叩かずに渡ってしまう猛者だっている。自分はどのパターンだろうと想定する。石橋を叩いてすぐには渡らないけど、結局、渡るひと。そう、定義づけると、今までの行いに合点がいく。なんとか生きてきたけど、なんとか生きていくだけの苦悩は味わった。そういうとき、いつも同じ言葉が頭を駆け巡る。「やればできるよ、できるよやれば、やるしかないのだから、やらなきゃだめですよ」そう、クレイジーケンバンドの名曲の一節だ。これを思い浮かべる。「ほんとの瞬間はいつもしぬほどこわいものだから、逃げ出したくなったことは今まで何度でもあった」こちらはブルーハーツの名曲から。ぶるぶる震えているのを武者震いとごまかし、目をつぶって突進していく。だいたい、こんな感じだったようにおもう。漫画大市民に胸を打つセリフがあった。「昔のお父さんが強かったのはやせ我慢をしていたからだ」なるほど、そうだったのか。父親の背中は大きくみえたものだが、背負うべきものは今も昔も変わらない。きっと重かったことだろう。かといって、何も時代のせいにするわけではないが、日本はもうこのままではもたないことは確定している。時代に沿わなくなってきているのは誰もが認めざるを得ない。にも拘わらず、相変わらずやることといえば税収税収税収と中身のない資本主義の理論に立脚した思考から抜け出せずにいる。やせ我慢もほどほどにしなければならない。やせ我慢は国をつけあがらせる方便に使われることだってある。昭和のお父さんから得た尊い教訓のひとつは精神論はとかくつけこみやすいということで、精神論に訴えかける連中に最近ではうさん臭さしか感じない。テクノロジーと合理性、そして、ここに付け加えるとしたら整合性だろうか。ここ数日はこれから先の日本のことばかり考えている。税金上げるしか能のない政府、官僚、さらに経済界。もうこの価値観に呼応する若者は日本にいない。今のやつは石橋を叩かずに別の橋を探す。なければ、引き返すだけだろう。2020年は静かなる革命のはじまりの年になるのかもしれない。
posted by せつな at 09:56Comment(0)日記