12月9日 午前中

だいたい、いつも頭にきているのだけれど、それは世の中に対して、身の回りに対して、自分に対してとあり、たまにそのすべてが気に入らない日がある。そうすると、どういったことが起こるか。だいたい大声を上げて怒鳴り散らす。関西人なので罵詈雑言はお手の物というか、小さいころから怒鳴りまくって生きてきた。ときには暴力をふるうこともあったし、モノを壊したり、家を壊したり、車を壊したこともあった。ここで疑問が生じる。なぜ、このような自分にマイナスしかもたらさない手法に打って出るのか。そもそも、なにゆえ、こういう現象が起こるかというと、無論、親譲りなど、性質という部分もあるのだろうが、多くは緊迫状態、歪力、重圧、テンション等の総合呼称、要するに、ストレスが原因として求められる。ストレスとはおもに外部から刺激を受けることによって、緊張状態が生じ、身体が自然な状態でいられなくなることで、外部からの刺激には音や気温、病気、睡眠不足等の身体的要因と内面の状態に起因する心理的要因、そして、これがもっとも多いとおもわれる人間関係、仕事の多忙などからくる社会的要因の三つがある。ひとはストレスなしでは生きてはいけない。この簡潔、かつ身も蓋もない前提から導き出される答えはただひとつ。つまり、ストレスとうまく付き合っていくしか手がない。これをストレスケアという。ストレスケアを施してやるためにはそのストレスがどのような効果を自分にもたらすかを知らなければならず、こちらをストレスサインという。代表的なストレスサインは「眠れない」「イライラする」「食欲がなくなる」「疲れる」「気分が落ちこむ」などで、ひとによっては歯が痛くなるとか、腰が痛くなるとか、耳鳴りがするとか、さまざまな症状によって体の危急を知らせてくる。ストレスサインを見逃さず、早め早めのストレスケアに徹することによって、多くのストレスは実は対症療法だけで片付くことに気づく。ストレスはその原因を探り、おおもとの切っ掛けに働きかけることが重要で、こちらは原因療法というが、多くのストレスが外部要因によってもたらされると知ったところで、これがなかなかに手ごわいのが現状。ストレスが仕事にあるのなら辞めればいい。されど、なかなかそうはいかない。人間関係がいやなら切ればいい。しかし、しがらみが。冬は寒いなあ。当たり前だ。などなど。対症療法が表面的な緩和に過ぎないのに対して、原因療法は根本を打ち砕く。長い目でみれば、原因療法が最適なことはアホでもわかるし僕でもわかる。ただ、残念。ほとんどのストレスは原因療法が及ばない。生きるということはそんなに簡単なことではないのだよ。なので、対症療法、別名「姑息療法」と呼ばれるやり方で姑息にやり過ごすしかない。頭がいたい。
posted by せつな at 09:50Comment(0)日記