12月22日 午前中

冬至に有馬にM1と。そろそろ押し迫ってきた感がある。いま現在はGGスタンドアップを聴きながらまったりしているのだけれど、ところで、なんて、いい歌詞なんだろう。「今夜も睡眠浅いぜ、深く寝たいぜ、昼寝かマッサージで落ちたいぜ」この国の明日を考えたとき、もう、こういった歌ばかりがひとの心を打つ。心に響く。心を放つ。のかもしれない。年の瀬が押し迫ると、人生について、ふ、と気づいてしまうことがある。人生の真実ってやつだ。年の瀬が押し迫るように、やがて、人生も押し迫る。と。なので、今日一日を大切に過ごすこと。そのためには何が必要か。金か健康か、はたまた家族か。はっきりいおう。すべて必要だ。そのことに気づかされるのが年末。というわけで、これを冒頭の三つにあてはめると、金は有馬だろう。かぼちゃとあずきを食べて、ゆず湯に浸かるとあれば、冬至は健康に直結する。M1はひとりで観てもつまらないから家族と一緒にね。普段はなかなか気づかないこの三つのありがたみ。ひとりぼっちで、寝たきりで、カップラーメンをすする正月をおもえば、なんと幸せなことだろうか。目の前にある幸せをさもあたりまえと投げやりに捉えていれば、それはやはり神さまの目にもとまるというもので、さすればけしからんと痛いお灸をすえられることにもなりかねない。常、日ごろから感謝の念を忘れず、日々を大切なひとと大切に過ごすこと。無駄遣いもしない。おカネは投資、消費、浪費のどれかだろうからできるだけ前者に寄り添うこと。健康にも留意しよう。乱れた食生活は乱れた暮らしにつながる。スタイルも維持しよう。そのためにはジム通いも欠かせない。近くにジムがなくてもなげかない。その辺を走りまわればいい。器具がなくても腹筋はできるし、スクワットも腕立てもできる。そう、気づかされる。気づいてしまう。12月22日。人生というニーズに対しての生活というウォンツ。今年も大切に暮らしましたか。新ためて自問する。押し迫ってきたなあ。
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12月21日 午前中

駆け込みで間に合った。でも疲れた。いつもぎりぎりだ。でも、いつも間に合う。石橋を叩いて渡るひとがいる。石橋を叩いて渡らないひともいる。石橋を叩かずに渡ってしまう猛者だっている。自分はどのパターンだろうと想定する。石橋を叩いてすぐには渡らないけど、結局、渡るひと。そう、定義づけると、今までの行いに合点がいく。なんとか生きてきたけど、なんとか生きていくだけの苦悩は味わった。そういうとき、いつも同じ言葉が頭を駆け巡る。「やればできるよ、できるよやれば、やるしかないのだから、やらなきゃだめですよ」そう、クレイジーケンバンドの名曲の一節だ。これを思い浮かべる。「ほんとの瞬間はいつもしぬほどこわいものだから、逃げ出したくなったことは今まで何度でもあった」こちらはブルーハーツの名曲から。ぶるぶる震えているのを武者震いとごまかし、目をつぶって突進していく。だいたい、こんな感じだったようにおもう。漫画大市民に胸を打つセリフがあった。「昔のお父さんが強かったのはやせ我慢をしていたからだ」なるほど、そうだったのか。父親の背中は大きくみえたものだが、背負うべきものは今も昔も変わらない。きっと重かったことだろう。かといって、何も時代のせいにするわけではないが、日本はもうこのままではもたないことは確定している。時代に沿わなくなってきているのは誰もが認めざるを得ない。にも拘わらず、相変わらずやることといえば税収税収税収と中身のない資本主義の理論に立脚した思考から抜け出せずにいる。やせ我慢もほどほどにしなければならない。やせ我慢は国をつけあがらせる方便に使われることだってある。昭和のお父さんから得た尊い教訓のひとつは精神論はとかくつけこみやすいということで、精神論に訴えかける連中に最近ではうさん臭さしか感じない。テクノロジーと合理性、そして、ここに付け加えるとしたら整合性だろうか。ここ数日はこれから先の日本のことばかり考えている。税金上げるしか能のない政府、官僚、さらに経済界。もうこの価値観に呼応する若者は日本にいない。今のやつは石橋を叩かずに別の橋を探す。なければ、引き返すだけだろう。2020年は静かなる革命のはじまりの年になるのかもしれない。
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12月20日 朝

今年の冬至は22日だ。夜がもっとも深まる日、冬至が近づくと読みたくなる漫画がある。大東京ビンボー生活マニュアルの神さまラーメンの回。屋台の神さまラーメンは夜がすべてという商売なので、年に一度、夜への感謝祭と称して冬至の日にスペシャルラーメンをふるまう。激辛超大盛のラーメンを残さず平らげると極楽行き。残すと地獄行き。主人公コースケくんは今年も成功。受験生は失敗。長引く浪人地獄。屋台のラーメンという絶滅寸前、もしかしたら絶滅したのかもしれない昭和な風景がこころに響くひとこまだ。冬至が夜のもっとも深まる日であるならば、これを人生に置き換えると60歳がその日となる。なっていた。今までは。60歳を定年とし、あとは優雅な年金暮らし。サラリーマンはこの日を人生の起点と定め、がむしゃらに働き酒を呑み一家を日本を支え続けた。その結果、日本経済は頂点を極め、世界でも有数の金持ち国家になることができた。昭和の残像というやつだ。政府が15日に発表した高年齢者雇用安定法改正案を紐解くと、もはやその残像も思い出でしかないことに気づかされる。15歳から64歳までのいわゆる生産年齢人口。総人口に占めるその割合いが2018年度では59.7パーセントとなり、統計を取り始めた1950年以来、最低となった。前年比で51万2000人減った。30年後にはさらに減る。極端に減る。どれぐらい減るかというと3000万人ぐらい減る。このまま俯瞰していてもはじまらない。というわけで、定年は60歳から70歳まで引き上げられることになった。努力義務と称して企業に丸投げするようだけれど、細かくみてみると、その中身は7項目にわたっている。65歳までは希望者全員の雇用義務が課されていて、企業の選択肢としては現行法通り①定年延長②定年廃止③契約社員などでの再雇用。70歳までは努力義務で、ここからが今回の法改正の骨格となる④他企業への再就職支援⑤フリーランスで働くための資金提供➅起業支援⑦NPO活動などへの資金提供。以上の四つが追加される。就労機会を増やすとかなんだかんだいっているが、要は年金制度が破綻したということで、もう、いつクーデターが起こってもおかしくない状況にまできているのが今の日本だ。メキシコのニュースを見ていると、他国のできごととはいえ、末恐ろしくかんじる。冬至の日は今後も引き上げられる。本当の冬至はこの日を境にまた若返るのだけれど。
posted by せつな at 09:13Comment(0)日記