11月30日 朝
最初に観たオリンピックと最初に知った総理大臣でだいたい年齢がわかる。ほがらかなサバ読みおばはんはそこからぼろが出る。総理とか首相とか大臣とか偉い人とかトップとかをうろおぼえながらほんのり覚えているのは中曽根さんの前のひとで鈴木善幸首相だ。中曽根さんが総理大臣になったとき、総理って変わるんだとおもった記憶がうっすらあって、その後は総理大臣といえば、中曽根康弘氏だった。世界に目を向けてみれば、日本のライバルはアメリカしかなく、あらゆる舞台で日米決戦という宿命づけられた対決が見ものだった。昨日の懐かしのインタビューで中曽根氏は「サミットに出ると愛国心が芽生える。なんとか日本の地位を上げなければとおもう」力強くこのように述べられていた。これがかの有名なサミットの中央写真につながる。これ以前、日本の首相といえば、隅っこに写るのが通例で、いかに先進国首脳とはいえ、欧米でははっきりいって認められておらず、アジアの代表ぐらいとしか受け入れられていなかった。この当時の日本はよく戦ったとおもう。政治家、官僚に限らず、ひたいに汗して世界中を飛び回った商社マン、転勤、単身赴任、過労、重労をいとわずただひたすら家族のため、日本のため、自分のために働き続けたサラリーマン、子だくさんで自分の趣味など持つ余裕もなく子育てに明け暮れたおかあさんたち。凡庸なコマーシャリズムは「24時間、戦えますか」を連呼し、とにかく動き続けた時代。その象徴が1983年5月のウイリアムバーグサミットの写真に表れているのかもしれない。鉄の女サッチャーを押しのけ、ロナルドレーガンと肩を並べる日本の首相。このとき多くの日本人は思った。首相に必要な能力の最たるものは身長だ、と。あれから激動の世界史はいまをも揺れ動かしている。日米決戦はいつのまにか終わり、いまや世界は勝手に独り歩きしているようだ。唯一、世界と、欧米と、闘ってきたアジアの国。苦汁をなめ、筆舌に尽くしがたい屈辱のなかで、それでも懸命に欧米と肩を並べ続けるわが祖国。中曽根元総理のニュースは世界中を駆け巡った。米メディアも相次いで速報を流した。ウォールストリートジャーナルは「最も影響力のあった首相のひとり」と報じ、ニューヨークタイムズはレーガンとサッチャーの間に強引に割って入ったエピソードを紹介し「それまでの特徴の少ないリーダーと異なり、世界で認識された数少ない首相」となぞらえた。陽はまた昇る。合掌。