8月27日 午前中

古今亭志ん生という稀代の噺家について、ラサール石井さんがこんな見解を述べている。「お酒飲んで高座に上がってるくせに酒で身を滅ぼしていないんです。その意味で本当の酒飲み。道楽をさんざんやって落ち着いてきてから面白くなってきたんじゃないかな」酒についての逸話も立派だ。関東大震災のまっただなかに酒屋で泥酔とか。ウォッカの一気飲みで自決しようとしたとか。双葉山と飲み比べをやったとか。NHKの大河ドラマでビートたけし氏が志ん生を演じ、話題となっているが、改めて世人俗人、落語家の魅力を味わっているような感がある。落語を愛してやまない理由のひとつに酒がある。とにかく酒の出てくる噺が好きだ。らくだ、百年目、青菜、夢の酒、親子酒、一人酒、上燗屋、二番煎じとパッと思い浮かべるだけでいくつもの作品風景が脳裏に描かれる。落語に関していえば、志ん生より、息子の志ん朝を愛してやまないほうで、ちゃきちゃきの江戸辯に魅力をおぼえる。米朝も枝雀もしかり。活舌と気風、そして粋を好む。いき、あるいは、すい、である。ただ、落語というのは数多あり、志ん生に寄り添うとともに6代目松鶴に魅せられたのもまた真実であり、活舌だけではない落語のおもしろさがここにある。ちゃきちゃきもこてこてもいいが、ふにゃふにゃもまたしかりなのである。志ん生はあまりに悪ガキがすぎて小学校を退学させられた。されど、勉学の道はここからはじまったといっていい。70歳を過ぎても落語の勉強にいそしんだ。何度も何度も読み返し、ぼろぼろになった円朝全集を胸に抱き、この世を去るまで親しんだ。まさに書は師なりである。書物の向こうに人が見えなければ価値がない。人間国宝、柳家小さんのインタビューにも似た答えがあったのを思い出した。「休んでるまなんかありゃしねえよ」芸術というのは救いの道だ。似た道に宗教もあるが、このあたりは倉本聰氏の言の葉に通ずる。詩人は海を歩き、哲学者は山を歩く。教養があれば芸術に救われるが、なければ宗教が巣食うのだ。もういちど、記そう。「お酒飲んで高座に上がってるくせに酒で身を滅ぼしていないんです。その意味で本当の酒飲み」
posted by せつな at 10:16Comment(0)日記