8月17日 午前中
ひさびさに旅をした。といっても日帰りのごくごく近隣へのおでかけに過ぎなかったのだけど、それでもどこか胸の高まりをおぼえたというか、非日常の違う世界を垣間見た気がする。夜はいつものとおりに過ごし、朝もいつもどおりに終わった。午前中の日課である筋トレのあとはいつもの土曜日がはじまるのだろう。「土曜の夜と日曜の朝」はいわずとしれたシリトーの代表作であるが、ブコウスキーを夏とすれば、シリトーは秋を感じさせる作家だ。時はすでに残暑と化し、出先でたまたま買ったスイカは夏のなごりの醍醐味で、蝉しぐれも勢いをなくした。今朝は今朝で夢のなか、過去をさまよった。残暑とはそういう季節だ。シリトーの「長距離走者の孤独」のような反骨と無頼のはざまで、旅を続ける理由はそれが人生だからというしかない。旅の途中でだれかと出会い、旅の途中でなにかを失う。得たものと捨てたもの。拾ったものと消えたもの。いつしか人生がふかんでいく。深みのさなか、夢をみる。そう、いつかみたあの夢のつづき。あの続きを見るには。夢の続きはもう日常生活の内側にはないことを悟った。だけど、非日常であろうと、どれだけ現実逃避しようと、それが日常の延長線なんだよといわれればそれまでのことで、どこで暮らしても、たとえば遠く異国の空の下で息をしても、吐息は自分の目の前に流れるだけで、けっして異国をさまようわけではない。シリトーの小説はコックニー訛りで構成されている。これを日本語に変換すると、訳者はため息をつく。そのため息もシリトーの現実のまえを漂うわけもなく、ただ自分と読者の葛藤につながる一本の白い糸でしかない。ある訳者は、おれ、を、おら、と訳す。東北弁にちかいのか。コックニーをひとことでいうと、パンクだが、そういえば、夢のなかでアナーキーインザユーケーを弾いていた。楽器はベースだ。それをトゥーフィンガーで弾いていた。シドよりはグレンなわけで、そうこうするうち土曜の朝がはじまった。やがて土曜の夜がはじまる。そして日曜の朝へと。