8月18日 午前中

長かった9連休も今日で終わり。いっぱい遊びましたか。たくさん笑いましたか。たっぷり呑みましたか。どさっといただきましたか。めいっぱい泳ぎましたか。数えきれないほどときめきましたか。がっぽり儲けましたか。パンパンに詰め込みましたか。惜しむことなくつぎこみましたか。ありあまるほどはしゃぎましたか。思い出をつくりましたか。夏がいってしまいそうになると、自由を求めるたびに出たくなる。新たなる自由。ほんとうはどこにもないのかもしれない自由。でも、どこかにあるのかもしれない自由。自由を求めた旅の果てにみつけた本当の自由。自由をみつけた気がしたとき、片隅にはいつも映画があった。なかでもアメリカンニューシネマは多くのことを教えてくれた。明日に向かって撃て。おれたちに明日はない。スケアクロウ。真夜中のカーボーイ。ワイルドエンジェル。スティング。特に一本だけ挙げろといわれれば昔から答えは決まっている。洗練された答えだ。「イージーライダー」これしかない。破滅的なラストシーンに突き進む自由の旅。theバンドのweightの響きに乗せてキャプテンアメリカはどこまでもいく。ハーレーだってどこまでも続く。風に吹かれ、雨に打たれ、たまには銃に斃れても。ワイアット&ビリー。そして、ハンセンよ永遠に。ピーターフォンダがなくなった。LAの自宅で、肺がんによる呼吸不全だったそうだ。79歳だった。イージーライダーはベトナム戦争を時代背景に1969年に公開された。カウンターカルチャーという言葉が独り歩きする以前の本来の輝きを放っていた時代の象徴だった。今じゃだれもかれもがカウンターカルチャー。猫も杓子もアーティスト。サブカルチャーが大手を振って闊歩する時代。そんな時代とは隔世の感のある、はるか昔の正真正銘の冒険。それが、イージーライダーだった。カネがない?いいじゃん、バイクに乗ってれば。家がない?バイクあるんだろ?腹減った?バイクがあるじゃん。とりあえず走ろうよ。ピーターフォンダ家は父ヘンリーフォンダを筆頭に俳優一家として知られる。最後に家族のコメントを「私たちは愛すべき、優雅な男性の喪失を嘆くとともに、彼の不屈の精神と愛に満ちた人生を祝福してあげてほしいと願っています。ピーターをたたえ、どうか自由という名のグラスで乾杯をしてください」自由という名のグラスか。何個、割ったことか。地震で。自由に乾杯しよう。不滅の、そして不朽の映画「イージーライダー」よ。キャプテンアメリカよ。永遠に。その名とともに自由を永遠に。
posted by せつな at 10:33Comment(0)日記

8月17日 午前中

ひさびさに旅をした。といっても日帰りのごくごく近隣へのおでかけに過ぎなかったのだけど、それでもどこか胸の高まりをおぼえたというか、非日常の違う世界を垣間見た気がする。夜はいつものとおりに過ごし、朝もいつもどおりに終わった。午前中の日課である筋トレのあとはいつもの土曜日がはじまるのだろう。「土曜の夜と日曜の朝」はいわずとしれたシリトーの代表作であるが、ブコウスキーを夏とすれば、シリトーは秋を感じさせる作家だ。時はすでに残暑と化し、出先でたまたま買ったスイカは夏のなごりの醍醐味で、蝉しぐれも勢いをなくした。今朝は今朝で夢のなか、過去をさまよった。残暑とはそういう季節だ。シリトーの「長距離走者の孤独」のような反骨と無頼のはざまで、旅を続ける理由はそれが人生だからというしかない。旅の途中でだれかと出会い、旅の途中でなにかを失う。得たものと捨てたもの。拾ったものと消えたもの。いつしか人生がふかんでいく。深みのさなか、夢をみる。そう、いつかみたあの夢のつづき。あの続きを見るには。夢の続きはもう日常生活の内側にはないことを悟った。だけど、非日常であろうと、どれだけ現実逃避しようと、それが日常の延長線なんだよといわれればそれまでのことで、どこで暮らしても、たとえば遠く異国の空の下で息をしても、吐息は自分の目の前に流れるだけで、けっして異国をさまようわけではない。シリトーの小説はコックニー訛りで構成されている。これを日本語に変換すると、訳者はため息をつく。そのため息もシリトーの現実のまえを漂うわけもなく、ただ自分と読者の葛藤につながる一本の白い糸でしかない。ある訳者は、おれ、を、おら、と訳す。東北弁にちかいのか。コックニーをひとことでいうと、パンクだが、そういえば、夢のなかでアナーキーインザユーケーを弾いていた。楽器はベースだ。それをトゥーフィンガーで弾いていた。シドよりはグレンなわけで、そうこうするうち土曜の朝がはじまった。やがて土曜の夜がはじまる。そして日曜の朝へと。
posted by せつな at 10:29Comment(0)日記