6月1日 朝

無敵のひと議論というのがある。例の川崎の事件で知ったのだけど、以前からネットスラングのひとつとして話題になっていたらしい。つうじて失うものがない人間を指してそう呼ぶ。職質をされた男性の話をずいぶん昔に見聞きしたことがある。「名前は?」「山田太郎」「免許証だして」「持ってない」「携帯してないの?」「持ったことがない」「いつも持ち歩かないの?」「免許自体ない」「電話番号おしえて」「電話ない」「仕事はなにしてるの」「してない」「家族は?」「いない」等の会話が延々と続くやつ。無敵のひとを知ってこれを思い出した。無敵のひとは強い。ひとという呼称すらおこがましいのかもしれない。無敵の生き物は手ごわい。刑罰が意味をなさないのだから。無敵の生き物は弱い。何も持っていないのだから。無敵の生き物に希望は必要ない。無敵なのだから。無敵の生き物は60万人以上いる。内閣府がそういった。無敵の生き物はひきこもりではない。しかし、社会の歯車でもない。無敵のひとになりたいと思った。役所から督促状が届いたりしたとき、あるいは納税の季節を迎えると。ここで歯を食いしばり踏みとどまるか、もしくは踏み外すか。人生の希望は絶望と背中合わせだ。背に腹はかえられぬ。ここはひとつ気を張ってひと踏ん張りで跳ね返そう、と、きっと、思えるのはやさしい記憶とおだやかな未来予測に支えられているからだ。不朽の名作、グレートギャツビーの冒頭はこうはじまる。
「僕がまだ若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕はことあるごとに考えをめぐらせてきた。「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべてのひとが、おまえのように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父のあいだにはいつも多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるところがあった。だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味が込められているのだろうという察しはついた。村上春樹訳。
ちなみに村上氏は小説ベストスリーのひとつにギャツビーを挙げていた。同感。ひとつ選ぶならギャツビー。ふたつならパルプも。世の中にはやさしい記憶がないか、忘れてしまうひとがいる。おだやかな未来予測を描けるのはほんのひとにぎりのひとたちだけかもしれない。されど、生まれてきたからにはかならず意味がある。そう信じて、無敵のひとになるのはやめようと。どうやって無敵のひとから身を守るか。この視点で。
posted by せつな at 08:30Comment(0)日記