3月31日 午前中

とうとう平成が終わる。ついに平成が終わる。あげく平成が終わる。かくして平成は終わる。ひっきょう平成は終わる。等、ここ数日総括しているが、改元が実際に行われるのは5月なのでまだ一か月あることに先ほど気づいた。ただし、新元号が発表されたとたん、あ、とばかりに平成の空気は薄れるだろう。平成を代表するものをひとつ挙げろといわれれば、やはり、インターネットの登場に尽きる。さまざまな利便性をもたらしたと同時にあらゆる危険性を指摘してみせたことが最大の貢献で、今後も世界の広がりにいっそう寄与するはずだ。利便性の面ではサービスや物の値段、価値観を根本から変えた。とどのつまり、お金のありかたが変わった。インターネットの誕生後、時を経て、世界を席巻することになる仮想通貨などはその典型といえる。お金という信用が実際は相対的な評価に過ぎないことを改めて世界に指し示した。多様化する錬金術は既存の集約システムを過去の遺物とばかりに次々に破壊し、今後、消えてなくなる職業は加速化するばかりだろう。当たり前の対価だったはずのモノやサービスに値がつきにくくなったのも特徴的だ。高度に発達したネット社会の流通において1次情報ほどその価値を高めているものはないが、価値が高まったからといってそれが実利に結実するとも限らない。よって汎用化の速度が飛躍的に進んだ。ユーチューバーなどの産物はその恩恵に与っているともいえる。危険性に目を向ければ、いわば、それこそが現在の社会構造の発端といえなくもない。ひとことでいうとイタチごっこだ。一昔前ならば、一般人がけっして触れることのできなかった情報がおどろくほど容易に手に入る。虎穴に手を突っ込まなければ手に入らなかった虎の子の情報がスマホのなかにあふれている。もちろん、覗き見るためにたいした努力も工夫も必要ない。ボーダーレス化した情報網は国家の垣根など鼻で笑うようにいともたやすく吹き飛ばしてしまったのだ。今朝の朝刊に杉並区の事件の続報が載っていた。犯人確保とあったが、容疑者は近所に住む知人の男だった。男の侵入経路である屋根上を捜索する鑑識の写真も載っており、進入方法をくわしく解説していた。容疑者は屋根からベランダに侵入し、ガラス窓をバーナーであぶったのち、打ち破った。おそらくこの方法もネットを介して知ったに違いない。あらゆる情報が詰め込まれた4次元ポケット。いっぽうでパンドラの箱として封印しておかなければならなかったものかもしれない。しかし、ふたは開けられた。一度、開いたふたは二度と閉まることはない。平成を振り返るときのキーワード。インターネットはその筆頭といえる。
posted by せつな at 10:24Comment(0)日記

3月30日 午前中

平成の終わりに内田裕也氏に続きショーケンが逝った。単純に遅れてきた世代だからリアルを肌でかんじる由もないが、傷だらけの天使というドラマが好きだった。当時をよくおぼえていないのだけど、再放送だったか、動画サイトだったか、ある時期、酒を呑みながら観るのが好きだった。そこに映るショーケンは居酒屋幽霊のショーケンではなく、煮えたぎるような熱気と下品さ、純粋さが混じりあったある時期の青春の体現者だった。年配世代がはまるのも仕方ないと思った。矢沢永吉氏の著作のなかにショーケンとの出会いの懐古シーンがある。キャロルデビュー当時、ショーケンはすでに雲の上の大スターだった。日本中の女性がショーケンとジュリーに恋した時代だ。ある日、キャロルに興味を持ったショーケンが楽屋に訪ねてくるという知らせが永ちゃんのもとに入った。その日は朝からそわそわしていたという。「ショーケン来たか?」「ショーケンまだか?」「ショーケンきた?」スタッフから知らせがはいった。「もうすぐ、入ってこられます」永ちゃんは急いでスポーツ新聞なんかを広げて普段とおなじ様子をきどり、なにごともなかったように、しかし、心臓はばくばくしながらショーケンを待っていた。バン。ドアが開かれる。くったくのない笑顔のショーケン。「おまえらがキャロルかあ、かっこいいなあ」タイミングを計る。ワンツースリー、ドン!「そういうあんたもかっこいいね」傷だらけの天使はその後、豊川、真木のコンビで映画化されるが、こちらの影響は自身のサングラスコレクションへとつながった。「じゃあさ、サングラス買ってくれよ。いっぱいあるんだ」しびれたね。こちらはこちらでかっこよかった。ショーケンを知る機会は竜二という映画のほうが先だったかもしれない。主題歌のララバイだ。金子正二はこの歌にインスパイアされ、インスパイア?ぬかせ。刺激を受けて映画の構想を思いついたそうだ。竜二は比類なき傑作として、ひとびとの心に刻まれた。もちろん、いまでも観る。ゴッドファーザーみたいなものだ。酒の肴でおばけが好きになったのは居酒屋幽霊の影響だ。「おばけ、おれだって喰いてえよぉ?」「おばけってなんすか」「あれ、わけえひと知らねえかなあ」というあのくだり。以来、夏の風物詩となった。ショーケン演じるかずさ屋の主人、そうたろうはそのままその後のショーケンのイメージとなった。路線としては前略おふくろ様の実直さに由来するのだろうか。とにかくこの映画が大好きだ。おばけ同様、夏の風物詩。こちらも傷天のように舘、松坂のコンビで新、居酒屋ゆうれいとして復刻したが、なんといってもショーケンバージョンがいい。図抜けていい。ちきしょう、惚れてらあ。今朝は今朝で元横綱双羽黒の北尾氏の訃報を新聞で知った。55歳。生き急ぎすぎた人生だった。傷天の最終回は日本のドラマ史上もっとも有名なラストシーンといっていい。映像に沿って流れるのは名曲、ひとり。「夢のような過去は消えていく。ひとりだけでただ歩く。もう、誰もいない」平成がいよいよ終わる。
posted by せつな at 10:27Comment(0)日記

3月29日 朝

平成がいよいよ終わる。数日をかけて総括しておこう。気づけば31年もの月日を重ね、ほとんどの記憶をこの平成の世に築いた。激動の昭和史を彩った数々の災害は主に人災だったが、平成は自然の脅威にさらされた時代だったようにおもう。もっとも記憶しているのはやはり阪神大震災だ。あの大災害以降よくもわるくも免疫ができてしまった。その後、日本、あるいは世界を襲う大規模災害をどこか遠目でみていた気がするのも身近で起きた地震のせいだった。無論、知るよしもないが、闇市のような三宮の街に戦後日本の造形を重ね合わせ、復興の合言葉にどこか懐かしさをおぼえた。平成が進むにつれていつごろからか時間が止まってしまった気がするのは2005年ごろの気がする。あのころから時は流れ続けているはずなのだけど、ずっと変わらない景色をみているようで、それはけっして成長がなくなったとかいう類のものではなく、時間そのものの概念に現実を重ね合わすことが困難になった感じだ。気づけばあのひとはもういない。見渡すとあのひともいなくなった。見回すとあのひとは年老いた。見下ろしていたはずがいつのまにかおとなになっていた。見上げていたひとももう何もいってくれない。なのに自分を含め、ずっとそこにいるような気もする。思い出のなかに居場所を探しているわけでもなく、現在進行形でただひたすら前だけを向いているつもりでもふと立ち止まると何も変わっていない気もする。きっと、現実は現実でしかないからだろうと頭のなかではわかっているつもりで、本当の答えを探そうともしない。酔生夢死という言葉がある。たいていマイナスの意味合いで用いられる慣用句なのだけど、昔からこの言葉が好きだ。憧れといってもいい。一時を成せば足るといったのは明治の軍人だが、それでいいとおもう。ひとの一生をかけて、たったひとつのことを成し遂げさえすればそれこそが人生の勝者だ。親愛なるブコウスキーもいっている。朝、起きて、靴を履けるだけで大勝利だ。そのとおりだベイベ。ほかに何がいる。明治というキーワードが出たので、ついでに記しておくが、明治モダン、大正ロマン、昭和レトロときて、平成はその後、どういった呼称をつけられるのか。個人的には平成メモリーなどがしっくりくる。万人向けではないが、自分にはしっくりくるというだけ。
posted by せつな at 06:26Comment(0)日記