1231 朝
最近、貧乏自慢が多い。今朝もそのような番組がやっていたが、親の不遇をさらけ出したところで、ただただ忍びないだけだ。バブル期ぐらいの貧乏自慢は主にその責任は自分にあった。他人に迷惑があまりかからない程度の貧乏自慢。4畳半一間の安アパートを借り、食事といえばホカホカ弁当にありつければいいほうで、なければキャベツをかじって凌ぐといった具合。そう、大東京貧乏生活マニュアルのようなせつなくも楽しい貧乏だ。中島らも氏は若いころの貧乏は本当の貧困ではない。齢をとってからの貧乏こそが本当の貧困であるとして、こうした貧乏自慢をピンボーと名づけていた。ピンボーは楽しい。いくら貧しくとも物質的に恵まれなくとも目の前には輝く未来が広がっている。体力も十分だ。2日や3日寝なくとも気力はすぐに回復する。ピンボー料理も楽しい。試行錯誤を繰り返し、いかに少ない元手でおなかを膨らませるか。カネがないのに酒も飲みたい。とにかく早く安く酔うためにはどうするか。ややもすると、これは人類における省エネの原理主義に他ならないのかもしれない。されど、こういった大学生時代や20代全般を通じての貧乏は笑い飛ばせるが、子供のころの貧乏は傷つくというひとは多い。おそらく、これは時が解決してくれる。ありがたいことに子供のころの傷は痛手ではあっても決して深手にはならない。それを証明してくれるのが貧乏自慢の芸能人であるとするなら、この手の企画も悪くないのかもしれない。しかし、最近のこの風潮は迎合主義なのか、むやみやたらにカミングアウトする輩が増えた。貧乏魂のヒットによる二匹目のどじょうを狙ったものか、はたまた単純な話題つくりか。それとも近年のSNS文化を象徴する没個性共感狙いか、あるいは本当にカネのなくなってきた日本社会へのすり寄りと、本当にカネが入ってこなくなってきた業界の肩の荷おろしか。本当のところはよくわからないが、いくつかのエピソードを聞いていても、突き抜けた貧乏でもないし、おもしろくもないし、ありきたり感のオンパレードでしかない。カネがないから拾ったえんぴつや消しゴムを使っていた。あくび。おれなら盗む。カネがないから炭酸飲料を飲めなかった。うんざり。おれなら盗む。「ねえ、神さま、ぼくはもう少しで飢えてこの世の中からいなくなります、ぼくの命とこの豪邸に住むおばあさんの命を取り換えてもいいでしょうか、ねえ、神さま、ぼくはいろんなものを盗んで生きてきました、ねえ、神さま、おばあさんを盗むのと本を盗む違いがぼくにはわかりません」カミュは太陽がまぶしかったからだといった。おれは太陽などまぶしくない。太陽を盗んで世界中を焼き尽くしてやる。本当の貧困を経験した人間はあまり語りたがらない。貧困にはみじめさ、わびしさ、卑屈さを超越するほどの人権軽視が関わっているからだ。貧乏人は踏みつけられ、さげすまれ、侮られ、忌避され、あざ笑われ、突き落とされるのだ。投石を受けて借家の窓を割られ、ダンボールの張られた窓をまた笑われ、家に小便をかけられ、おびえている小学生の子供はこづきまわされ、連れ去られるのだ。貧乏自慢のいかに退屈なことか。