1122 午前中
大河ドラマせごどんを観ていて感じるのはやはりウツワの大きさだ。人間の器。器量ともいう。人間の心底を推し量るにはその人間に秘められた器の大きさを推し量る。そうすれば自ずから答えは導き出される。実践倫理の視点に「人間の器や器量とは」と題する記載があった。上廣名誉会長の「人生を輝かす」よりの抜粋だ。要約すると、器はどのような生き方をするかによって大きくも小さくもなる。一方、私たちは日々、異なる立場を生きている。ときには親となり、ときには子となる。相手や時や場所によって立場は変わり、そのあらゆる立場において柔軟な対応ができ、分裂することのない確固たる人格であれば、器量の大きい時分となる。自分とは何か、ではなく、今の自分はどういう状況にあるのかだけを直視すること。実践倫理では我れを固定的に考えない。自分とは現在の器量や能力や状態であり、発展途上のものと考えるからである――ざっとこんな感じ。短い文だが心を打たれた。あくまで、自分とは現在の自分であり、固定化されたものではなく、常に発展途上にある。こう考えると齢を重ねるのも悪くないと素直におもえる。かつて通信制大学で学んでいたころ、毎月、送られてくる小冊子のタイトルがデベロップだった。そのデベロップは無論すべての通教生に届く。なかには70代のひともいる。なかには高校を中退したあと、高認を取ってから学びなおす子もいる。存在するのはのべつ幕なしに発展途上の自分と他人だけだ。先日、新聞だったか、立ち読みした雑誌だったか定かではないが、逃げ恥のセリフが載っていた。若さだけに価値を見出す女にゆりちゃんが説くシーンだ。ネットから抜粋する。「今あなたが価値がないと切り捨てたものはこの先、あなたが向かっていく未来でもあるのよ。自分がバカにしていたものに自分がなる。それってつらいんじゃないかな。そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまいなさい」多くの働く女性がこのセリフに感銘を受けたという記事。さもありなんだろう。若者をバカにするな来た道だ。年寄をバカにするな行く道だ。いつだって発展途上の自分でいたいと思う。