1121 朝

昨日の新聞各紙一面はゴーン社長で統一されていた。といっても三紙しか読んでいないが。日産は終わった。誰もがそう論じている。大して興味はないので読み飛ばした。興味を抱いたのは社会面の隅っこに乗っていた小さな記事。キムチ速報と笑韓ブログがヘイト認定されたとかいう記事だ。あの程度でヘイトなら世の中はヘイトで成り立っているといっていい。思えばラブ&ピースを歌ったジョンに対し、ジョーはヘイト&ウォーで正答を導き出した。当時の状況を鑑みればどちらがよりひとの心に突き刺さったか明らかだろう。建前と本音。正論と理想論。理想を掲げるのはいい。誰だって高い理想に向かって走るべきだ。されど、その理想が夢物語では現実は成り立たない。つけこまれ、侮られ、かすめ取られていく。生きていればそうした機会に数多く出くわす。騙され、侵され、ひっかけられ、その挙句、慰められるどころか、スキのあったお前が悪いとさげすまれる。今週号の黄昏流星群がまさにそんな感じだった。思い出は思い出で終わらせるほうがいい。思い出に逢ってもろくなことはないという教訓。あくせく働いて貯めた金を一瞬のうちに奪われることだってある。「母さんぼくだよ、ちょっと風邪ひいちゃってさ」「たかしかい?たかしなのかい?」「そうだよ。たかしだよ。ちょっとへましちゃってさ。事故で損害賠償払えって、ううううう。ぼくの人生終わっちゃったよ。うううう」「あんたの人生は終わらないよ。母さんが終わらせるわけがないよ。ううううう」無能、低能、ぼんくら、あほ、ぼけ、かす、クズと呆れられる晩節の仕打ち――まったくないとはいいきれない。軍備は許さないと声高に叫ぶも自宅のセキュリティは他者にきっちり依頼する自称隣人愛なコメンテーター。自衛隊反対とわめきながら今日も保険選びに余念のない自称丸裸な武器を捨て楽器をを唱えるミュージシャン。ラブ&ピースほど胡散くさいものはない。それを座右の銘に掲げる政治家をひとり知っているが、そいつの政党の支持率は1パーセントを割っている。世の中を知る多くの賢者はきれいごとの限界もともに知ってしまうものだ。誰かが足をひっかける。その可能性を否定できないからこそ杖を持つ。その杖を持った根拠が憎しみと悲しみの蓄積にあれば、きっと理想論などおよびもしないのだろう。杖だってときには牙をむく。転ばぬように杖を突く。転ばせようとした相手を杖で突く。正当防衛と過剰防衛。この議論は加治隆介のシージャック事件に詳しい。なんでもかんでもヘイトでは言論など成り立たつはずもない。そして、その線引きは可能なかぎり不寛容の寛容であるべきだ。これは逆説的であり、不寛容の寛容に対する議論すら尽くされていないと悟ったうえで、議論を続けるための杖を持つ。道理とは道徳的であらず。むしろ不道徳なほど真理が見えやすい。それを知ってしまった悲哀に打ち克ってこその人生。それこそに幸あれといいたい。転ばないことが尊いのではなく、転んだあとに立ち上がること。これが肝要。寛容と肝要。いかんよう。あかんよう。あ、かんよう。韓痒。韓酔う。涵養とか。
posted by せつな at 06:39Comment(0)日記

1120 午前中

先日、アフロ田中の上京編を読んでどくだみ荘を思い出した。そういえばどくだみ荘ってあったなあという感じで。こちらも大市民と同様、何度かに分けて連載化されている。主人公ヨシオは絵に描いたようなクズだ。地元岡山からミュージシャンを夢見て上京。デビューにめぐまれず四畳半一間風呂なしトイレ共同キッチン共同のどくだみ荘に暮らし、カネなし、職なし、女なしの貧乏独身生活を送る。ギターは上京後1年で質に流してしまい、以後は日雇い土木作業員で生計を立てている。極度のスケベで趣味は飲酒。酔いつぶれて道端で寝ることも多い。当時、どくだみ荘ほど下品なマンガを見たことがなかった。だが、時代が時代だった。とにかくカネがなくともなぜか食べていける雰囲気が充満しており、カネのために自由を売るのはまっぴらごめんという風潮がそこかしこに跋扈していた。24歳という年齢も絶妙だった。完全に遅すぎて、しかし、あきらめるには早すぎるという誰しもが思い当たる東京物語の現実がそこにあった。読者の共感はまさにこの辺りに集中していた気がする。今朝の毎日新聞に渡辺えりこ氏の読者相談があった。相談者はどこだかの地方都市に住み、とにかくそこが嫌で仕方ないという。上京したいがとくにやりたいことがあるでもなく、どうすればよいかというもの。これに対する渡辺氏の回答は実に単純明快で、若いころは自分の生まれ育った環境が嫌になることがよくある。とりあえず上京してみなさい。東京のいいところも嫌なところもわかるし、故郷を離れることによって親のありがたみや地元の優しさを知ることもあるかもしれない。東京が嫌になれば帰ればいいし、東京でやりたい何かが見つかるかもしれないし、どうやって生計を立てるか悩むのもいい。というようなほぼ全方位に対する回答内容だった。どくだみ荘は作者、福谷たかし氏の実話がベースになった物語だ。氏も16の時に岡山の高校を中退して上京。漫画家を志すもなかなか日の目を見ない。くしくも現在世間を騒がせているボヘミアンラプソディーという同名作品にてデビューを果たす。そういえば作中によくクイーンが登場する。ヨシオはクイーンを夢見て上京したのだっけ?1979年、それまでの自らの半生を漫画化し、作品を持ち込んだところすぐに「独身アパートどくだみ荘」として連載がはじまる。そこからは怒涛の勢いで15年の長きにわたる氏の代表作となる。しかし、連載晩年は作品に悩み、世間とのずれのはざまで酒浸りの毎日を送る。2000年9月、48歳の若さで急逝。たまたま思い出して、ひょっとしたらまだ連載を続けているかもしれないなどと考えていた。現実はこんなものだ。作品の締めくくりは作者なきあと、同志たちの手によって成就した。現在のどくだみ荘。かつてヨシオが暮らしていた部屋に漫画家志望の若者が入居する。ヨシオの幽霊から漫画のアドバイスを受け、見事デビュー。そう、ヨシオはこの部屋でガス中毒でなくなっていたのだった。下品で下劣で不道徳。でもなぜかひとを惹きつけてやまない作品、それがどくだみ荘だった。ふっと思い出したエピソードはヨシオが屋台でコップ酒に唐辛子をいやというほど振りかける場面。それを飲み干したあと、おもむろに駆け出す。これがもっとも安く酔える方法とヨシオは力説するが、これを眺めていた住人のひとりがつぶやく「ふつうに働けばちゃんとしたものが食べれるのに」なぜかこのシーンを鮮明におぼえている。屋台とコップ酒。これも東京のひとこまだ。
posted by せつな at 10:30Comment(0)日記

1119 午前中

百田尚樹氏の著作「日本国記」が発売直後からすさまじい勢いで売れている。初版25万部に5万部の発売前重版を加えた計30万部でスタートしたが、さらに正式発売日の12日、10万部の増刷が決まったという。この数字がいかにすごいことか、以前、紐解いた松本人志氏の「遺書」の初版が5万部である。御存じのとおり200万部を超える大ベストセラーと化したが、たった5万部?と首をかしげる著者の嘆きにあとがきで識者がこう答えている。「初版で5万部というのはかなり強気」これを裏付けるように昨今の出版業界では1万部売れればベストセラーが常識だという。それが30万部。さらに増えて40万部。100万部突破はまず間違いないとして、このおそろしい売れ行きの根拠はどこにあるのか。行きつけの本屋でもレジ前のもっとも目立つ場所で大々的に陳列されていたので手に取り目を通してみた。ほとんどの新刊本を本屋の椅子で読了してしまう自分でもさすがに分厚すぎて近現代しか読めなかったが、特段、おかしなところはない。ごくごく当たり前の認識がごくごく当たり前に記されているだけで、北コリアに関する章などは手ぬるく感じるほどだ。発売前からド腐れきったサヨク界隈からいちゃもんをつけ続けられた今作だが果たしてどの部分が気に入らないのだろうか。百田氏の盟友であるケントギルバート氏は感想をこう述べている。「内容について賛否両論あることは、日本が民主主義国として健全な証拠だ。だが、従来の歴史観と違う内容は許せない、だから読む必要すらない、排斥すべきだ、と考える人たちは全体主義者であり、日本よりも近隣諸国に住むべきである」見識というべきだろう。この動きはもはや日本国記現象だ。ケント氏も述べているが、今後、メディアがどう報じるかとても楽しみだ。さて、先ほどもいったが、ほとんどの新刊本、話題本を本屋の立ち読みで読破してしまう自分は出版界の敵といっていい。いいが、これまで料金を支払わず本を持ち帰ったことは一度もない。盗もうなどと考えたことも一度たりともない。そういった行為は著者に対する冒涜であり、立ち読みとは意味を画す行動と考える。で、あるからこそ、サヨク思想に毒された近隣諸国に住むべき害虫が万引きを煽るツイートをした事実は見逃せない。いうに事欠いて批判するために「歴史修正主義は許せない。批判検証のため、買わずに万引きすべし」と持ち掛けたのだ。これは犯罪教唆以外の何ものでもない。恥を知れ人非人畜生が。近現代しか読み解いていないが、この本は全日本国民が読むべき本だと声を大にしていいたい。我々、日本人はどこから来て、どこへ向かうのか。そのヒントの多くが日本国記のなかに隠されている。歴史修正と揶揄する連中にいいたい。きさまらの腐った頭は腐ったまま朽ち果てるだけだ。理知的でありたければアップデートは重要な作業のひとつだ。毎日、欠かさず行おう。
posted by せつな at 10:41Comment(0)日記