1127 午前中

一日まったく睡眠をとらないでいると目の奥が痛くなる。これを和らげるにはカフェインが一番だ。しかし今日はいくら飲んでも目の奥の痛みが消えない。寝るしかなさそうだ。まったく世の中は狂ってる。ニュースというニュースはおれが培ってきた常識のはるか先を突っ走っているようだ。それにしても今日は暖かい。10月中旬ぐらいだと天気予報は伝えるが、感覚としては初夏の陽気だ。ちょうど八重桜が咲き始めたころの雰囲気。風はまだいくぶん冷たいが陽射しは柔らかく半そでで歩いていても気持ちがいい。午前中はいつものように筋トレにはげみ昼食は回転ずしで済ませた。腹ごなしをかねて近隣を散策した。白菜が安かった。大根が安かった。きゅうりも安かった。今年は地震と台風の影響で値上がりは必至と覚悟していたのでこの価格はうれしい。白菜はとにかく巨大なひと玉が200円。大根は3Lサイズが100円。ダイエット必然の極太の足だ。きゅうりは10本入りで150円だった。なべ料理が適切なチョイスといえるが、昨夜の蓬莱さんの予報を観たのち、明日は必ず5月の気分で呑むと決めていた。きゅうりはみそをつけて、あとソーセージを焼いて、先付けはネギトロとたくわん。そんな晩酌を楽しみにしていた。だが、それも日が落ちるまでの楽しみだ。今日は早めに眠ろうとおもう。三連休のあとの月曜日はすでに師走へと向かってひた走っている。明けて火曜。本日は11月の権利確定日でもある。残る月日もあとひと月。12月は倒れるかもしれない。ただ、どうせ倒れるなら前向きに倒れこもうとおもう。さらに明けて明日にはまた寒気が戻りそうだ。そして、雨。冷たい雨。雨は日によって嫌いではないが、明日の雨は嫌いになりそうな雨かもしれない。されど、雨。これは確定的。ニュースが楽しみだなんてほんとかい?なあ、おとっつぁん、狂ってるぜ、狂ってるぜ――って歌詞の曲があったな。なんだったっけ。まあ、いいや。
posted by せつな at 14:57Comment(0)日記

1126 午前中

オンナが嫌いな若手女優トップ10というものが発表された。ヤフーニュース。結果に興味はないが、ひとを嫌う理由が何かを改めて思い起こさせてくれた。会ったこともないのに、とか、直接的に被害をこうむったわけでもないのに、とか、の議論。ひとを嫌う理由、そしてその逆の理由など実に単純で明快なものだ。顔が気に入らないはいうにおよばず、目の形が嫌い。耳の産毛が嫌い。まつげの向きが嫌い。などなど。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよくいったもので、いったん嫌いになると根が深い。しかし私は男性である。ここが女畜生との唯一の違いであり、これ以下もこれ以上もない。嫌いになるということは好きになるハードルが極端に下がることも意味する。それが関係性に類する個人的な視点であれば、たとえば男女間であれば恋愛感情に発展するかもしれないし、同性同士であれば友情が芽生えるかもしれない。トランスジェンダーではあるいは両方。個人間ではなく、パブリックな空間で、なぜパブリックを用いたかというと公とか社会では問題がぼやけると思ったからで、パブリックな空間で毎日、ネガティブなあるいはポジティブな情報に接すると正負の心根は日に日に増大していく。そして、現代ではこうした情報に接する機会が格段に増えた。もちろんインターネットの登場によってである。しかるに情報とはその多寡によって切り取りができる点に優位性を見出せる。つまり、情報を忖度して受け取れるということで、問題なのは嘘の情報であれ、真実の情報であれ、インプットするにはさほど差がないという点だ。これを情報の特異性と名づける。毎日のように垂れ流される情報の真偽には受け手の思想があまりに多く影響してしまう。その結果、あまり意味を持たなくなってしまうわけで、ひとは自分の信じたい情報だけを信じる傾向にあるのは哲学派生の昔から真理を言い当てていたということだ。宗教しかり、政治思想しかり、贔屓球団しかり。ひとは現実のすべてが見えているわけではない。多くの人間は見たいとおもう現実しか見ない――ジュリアスシーザー。で、あるからこそ入り口はとても重要となる。無論、この入り口は教育の入り口であり、その教育課程がいかに大切かを社会に出るころには身をもって知ることになる。社会に出るころを明確に記すと選挙権を持つ年齢と定義する。自分の一票が社会を育て社会に奉仕するのだ。結論。物事の好き嫌いには理由がいる。理由には根拠がいる。根拠には客観性が寄与する。
posted by せつな at 10:14Comment(0)日記

1125 朝

万博が決定した瞬間、テレビのまえで喜びに浸った。場所はちがえど同じ大阪の空の下、道頓堀に集う群衆をみて胸が熱くなった。これだけの人間たちが寒空の路上で決定の瞬間を待っていたのだなと感慨深い思いがした。結果は92対61という大差でエカテリンブルクを破り、見事2025年の万博開催を大阪が勝ち取った。歓喜の瞬間を見届けたあと、3時半ごろ就寝し、土曜8時のウェークアップを最初から観た。我ながらタフだとおもう。10時にはジムで20分はしり、筋トレ各種。12時にはワインを呑んでいた。勝利の美酒は48年前の万博会場で。ガンバのホーム最終戦ということもあり、万博周辺は中も外も異様に混んでいたが、楽しいときを過ごすことができて最高だった。万博開催のちの夢洲は統合型リゾート地となる。いよいよ日本に大阪に初のカジノができる。万博はショーケースとよくいわれるが、2025年の万博こそがかつて夢見た万博のショーケースなのだろう。映像でしか見たことはないが、すべてが前向きで、明るい未来を信じることのできた空気感は伝わってくる。エキスポシティがオープンし、フードコートをはじめ、当時の名残がいたるところに見受けられる――日本は本当に齢を取ったのだとかんじる。壮年期から老年期にさしかかっている感さえ近頃はある。だが、悲観する必要もない。未知の老年を生きればいいだけなのだから。咲洲、舞洲、夢洲がつながり、中之島線も延伸する。鉄道の開通がめまぐるしい勢いで次々に訪れる。まだ先の話だがモノレールも大日から大阪市内へと延伸する。次から次へ結ばれていく。大阪だけではない。関西一円がつながる。神戸空港と伊丹空港の国際線化。2037年ごろに前倒しになったリニア開通。こうなると関西ばかりともいえなくなってくる。東京大阪間も1時間台でつながる。大都市から大都市へ。いずれは地方都市とも連携することを鑑みれば移住ももっと身近なものになっていくだろう。2025年はひとつのターニングポイントになる。この国の真の試練は団塊クライシスにあらず。団塊世代を支える層、団塊ジュニアのリタイヤこそが最重要課題であることは明白だ。団塊を支える層を下支えする層は、もう、ない。2025年、団塊ジュニアが壮年期から老年期へ差し掛かるころ、万博のショーケースはどのように彩られるのか。試金石はもしかすると隣の大国にあるかもしれない。長らくの一人っ子政策の結果、いびつな逆三角形を構築し、ひとりから二人へと緩和したが改善はされなかった。先ごろ、あわてて、無制限に緩和したが、少子化の流れは止まらない。少子化は全世界共通というデータもある。2025年の万博のテーマはそのまま全世界のテーマに置き換わる。移民、難民、移住、二世、三世、残留孤児、ハーフ、クオーター、ハイブリッド、人口減少の街と人口増加の街、長寿命、健康寿命、税と社会保障。ショーケースの彩りは皮膚のいろ同様、多国籍化するのだろう。
posted by せつな at 06:25Comment(0)日記