6月30日 朝
早いもので今年も半分過ぎたことになる。明日からは7月。ささの葉が冷房の風にゆれるこの季節、ああ、今年も誕生日がきたのだなあとふっと懐かしい気持ちもゆれ動く。歌手の福山氏は毎年、自分の誕生日に母へ花を贈るときいたが、よくわかる。年々、そういう気持ちが強くなる。自分が生まれた日と同時に母が自分を生んでくれた日。ただただ感謝感謝。生きていたらどんな言葉をかけてくれるのだろうか、どんな言葉をかけるだろうかと思わないでもないが、人生とはかそけき花弁のようなもので、いつか自分も散る。振り返るのはよそうと思う。先日の地震もこういった感情に起因する。こつこつ集めたグラス類が木っ端微塵に砕け、唐突に諸行無常を悟った。散る桜、残る桜も散る桜。裏をみせ、表をみせて、散るもみじ。そういった刹那を悟った。あと、何度、誕生日を迎えるのか。ひとは自分の数奇な運命を知らない。かつてブレードランナーで描かれたレプリカと人間の運命に違いがなかったように、マンガ大市民で人生のはかなさを問う柳沢きみお氏のように、人生の終わりを知る手だては人間にはない。もし知っていれば、毎日をだらだらと過ごすことはないだろう。知らないから日々があっというまに過ぎていく。ワールドカップも同じだ。あと何試合できるかわからない。終了は突然、告げられる。多くの欧米メディアはサムライを誤解している。腹切りだけがサムライではない。織田信長は勝つ見込みのある戦いしかしなかった。勝てないとわかった瞬間、いち早く逃げた。それが天下布武の旗印だ。今回の日本の戦術に賛否があるのは当然として、日本を貶めるような一方的な攻撃は解せない。上にいくための戦略。関ヶ原に参戦したすべての足軽の奮闘は手柄を立て出世するためにあった。玉砕が前提では決してない。たとえ、身分が低くとも、たとえ、武勲に優れていなくとも、上を目指してそのための戦略に奔走したのだ。ふいに幕末青春グラフティで龍馬が投げ掛けた言葉を思い出した。おんしゃらあ、それを笑うか。サムライのなんたるかを知るよしもない欧米各国のメディアははんかつうにサムライを語るべきではない。せいぜいが時代劇をみてハラキリ、ゲイシャ、フジヤマと笑っているのが関の山だ。薄っぺらな東洋観では侘び寂びの精神など永遠に理解できないのだから。