5月31日 午前中
昨夜のサッカーをみて意外にも暗い気持ちにはならなかった。おそらくそれほど期待していなかったのと久しぶりに代表の試合を自宅でみれたことに起因する。ワールドカップ直前の壮行試合で2対0という完封は当然、暗雲立ち込める展開しか望むべくもないが、本田選手がいっていた通り、悲観に暮れる必要はないとおもう。なぜなら、ワールドカップは祭りだからだ。無論、日本の代表が勝てばうれしいし、点が決まれば肩を抱き合い大騒ぎもする。されど、ワールドカップという世界のひのき舞台で我が代表を観られるという一点において、それこそ何物にも代えがたい至福というものだろう。確かに結果がともなわなければブーイングが巻き起こるスポーツの世界ではある。本番直前の体たらくに落胆をおぼえる気持ちもわかる。以前ならブーイングの雄たけびを上げるひとりに自分も加わっていたかもしれない。でも今は違う。オープン戦の大谷選手の記憶がいまだ根強く残っているからだ。アジャストするためのチャレンジ。そう捉えることで見方も変わる。収穫としては広告枠の選手がそれほど機能しなかったことと相変わらずメッシやクリロナにはみられない、ノーコン、ど正面シュートに端を発する得点力不足が露呈したことで、本日、午後の代表メンバー発表ががぜん楽しみになった。毎度、ワールドカップの代表選出はサプライズがつきものとはいえ、今回ほどサプライズを願いたい気分の年はない。圧倒的サバイバル感。競争激化。アピール度。悲壮心。そういった雰囲気があまりない。ロートルと知名度、そして広告塔が支配する代表に未来はありえない。誰もが認識を共にするが、誰も変革を遂げようとしない。しかし、振り返れば、こうした取り組みは今にはじまったわけではないし、以前、トルシエ元日本代表監督がインタビューに答えていたように商業ベースと実力は決して釣り合いの取れないものでもない。「職人は作品に愛情がなければオートメーションの機械と同じだし、アーティストは作品が売れなければただの変人だ」この言葉を踏まえたうえで、それでも23人に絞り込まなければいけないのだから、やはり、可能性に賭けるべきだと思う。可能性とは未知の力であり、未来の行く末でもある。本日、午後、4時。可能性を楽しみに待つ。