2月28日 朝

一月は行く、二月は逃げる、三月は去る。正月が明けてから本当にめまぐるしく月日が過ぎていく。明日から3月。年度末となる。そういえばコートを着ることがなくなった。近所ならジャケットすら羽織らずに家を出る日もあるし、こうやって季節がめぐっていくのだろう。春になると、わくわくする。ほとんどのひとがそうだとおもう。冬のはじめに感じたときめきも薄くなり、寒さだけがこたえる毎日がようやく終わる。日差しが日に日に伸びて夕方が長くなる。家呑みの友にたまたま見つけたおもしろそうな中古DVDを衝動買いして、酒と酒の肴を求めスーパーや商店街に立ち寄るなんて時間に心も弾むというものだ。春を感じさせるものはいろいろある。花は文句なしに桜。食材は山菜もいいが、なんといっても初鰹だろう。香りでいうとやはり沈丁花で、秋のきんもくせいと同様につい立ち止まって辺りを見回してしまう。スポーツではJリーグも開幕したし、そろそろ野球もオープン戦がはじまるだろう。注目のひとりはもちろん大谷昇平だ。活躍はまず間違いないとしてどのレベルの野球を繰り広げるか、期待感でいっぱいになる。東北地方をつらい震災が襲ったとき、野球の活躍を通じて岩手のひとを元気にしたいと語っていた。悪魔のパス天使のゴールだったか、日本人選手が海外で活躍したところで、当の日本人には何の還元もない、とわざわざ書いた村上龍氏とはドエライ違いだ。そういえば、氏は某番組で司会者の「日本人として誇らしいでしょう?」との問いに、日本人おめでとう、ではなく、やわらちゃんおめでとう、を最後まで譲らなかったな。春といえば、卒業シーズンでもある。出会いがあり、別れがある。ひととしての宿命。それだけではない。大きな一歩を踏み出すか、現状を維持するか、決断の季節でもある。人生、望めばなんだって手に入る。そうやって生きてきたし、これからもそうだ。必要なのはチャレンジだ。かつて自らをチャレンジ中毒と称し、さまざまな施策を世に問うてきた楽天の社長がまた新たな試行をたくらんでいる。今朝のストックボイスでは、最近の楽天は最新鋭施策にフルスロットルで舵取りしている、とコメントしていたが、この時期にブロックチェーン技術を活用した楽天コインの構想を発表するとはまさに業界の風雲児と呼ぶにふさわしい。株価が跳ね上がっているところをみると、仮想通貨憂惧も一段落といったところか。チャレンジという言葉ほどいい言葉はない。戦いに挑むというのもいい。これを挑戦と書くと途端に興ざめするのはなぜだろう。さあ今をはじめよう。
posted by せつな at 08:28Comment(0)日記

2月27日 アフタヌーン

女性専用車両をめぐる議論に一石を投じる騒ぎが先日、起きたが、その動画を今朝のワイドショーではじめて観た。異様な雰囲気だった。乗り込んだ男性3人に対するあからさまな非難は車両にいた女性たちの無知をさらけ出すには充分といえた。女性専用車両をあきらかに当たり前の権利と認識しているさまが見て取れたからだ。さもなければ、あのような大合唱になろうはずもない。マジョリティがマイノリティを威圧する。もっといえば、力のある者が力の劣るものを力によって服従させる。ある意味、痴漢行為と同じ構造ではないか。3名の男たちは例に倣って声を上げ、警察に通報した。この男性たちはこうした行為を何度か実行しており、以前の動画はユーチューブで観かけたこともあって、いわば確信犯だが、どちらの言い分が支持されようと、論争が世間一般に広く知れ渡ったことは事実だろう。分断の時代はとうとう男女を別つところまできている。女性専用車両に男性が乗っていはいけないなどという法的根拠は何もない。つまり、制度は男性側の理解と協力によって任意で推進されているに過ぎない。男性が乗車するにあたって、何ら違法性は生じないのだ。憲法第14条には、すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分、または門地により、政治的、経済的、または社会的関係において差別されない。とあり、両性の平等が明確に示されている。実際にJR東日本の回答は、法律や約款で禁じているものではないとしている。いっぽうで、女性専用車両が創設された経緯にも留意しなければならない。この点において賛否両論が巻き起こるのはしかたないといえる。今後の展開として、読み解いておくと、今般、3名の男性乗客に過ぎなかったが、これを数十人単位に増員すればJR側の対応は後手後手に廻らざるを得ないだろう。ある閉鎖されたコミュニティにおいて、マイノリティがマジョリティ化する恐怖が目に浮かぶ。さらにLGBTへの配慮という課題もある。以前、神戸の飲食店だったか、性同一性障害を抱える客の胸を触り、屈辱的な言葉を浴びせたとした男の控訴審があり、罰金刑が命じられたことがあった。LGBTへの理解は時代の変化もあり、一時期よりもさらに深く社会全体に浸透している印象だ。中身は女性としても、被害者の見た目は男性だったという。たとえば、この被害者が女性専用車両に乗り込み、容赦ない言葉を浴びせられたとしたら、その言葉を浴びせた女性客はやはりその言葉の責任を取り、何らかの咎めを受けなければならないだろう。事件化する要因は増加の一途を辿ることだろう。
posted by せつな at 14:50Comment(0)日記

2月26日 朝

82年前の今日、226事件があった。もちろん概要は知っていたし、興味の赴くままに文献も紐解いていた。されど、そのおおもとの雰囲気というか、核心部分を理解したのは宮部みゆきさんの蒲生邸事件が最初だったように思う。徳川の昔から昭和にかけて特に地方で暮らす庶民にとっては大局よりも近傍がすべてであり、回りまわってという概念が今よりはるかに欠如していた。この考えに沿って物語は構築されている。当時、多くのひとにとって事件は絵空事だったのだ。しかしながら、このことを通じて直接的に庶民は災厄をこうむることになる。226事件を繙くと先の大東亜聖戦を読み解くことができるからだ。明治維新から時を経て、まさに昭和維新と呼ぶべき近代化第二章のはじまりだった。クーデターは未遂に終わり、その後、北一輝をはじめとする皇道派の中心人物は全員、粛清を受けることになるが、まさしく、若殿に兜とられて負け戦の顛末だったといえる。村上龍氏の傑作「愛と幻想のファシズム」に青年決起将校にまつわる挿話がでてくる。そのなかに、必要なのは日本ではなくソニーでありトヨタだ、というようなセリフがでてくる。サヨクというのはこういう言い回しが大好きなようで徹底して日本と日本人と日本製と日本産と日本人選手と日本人偉人と日本人発明者を切り離して考える。いっぽうで、日本と日本人と日本の事件と日本人犯罪者と日本人加害者と日本人敗者と日本人劣等者と不細工日本人は同一視するという矛盾を繰り広げて恥じることもない。つい先日も日本人がすごいのではなく、羽生選手がすごいのだ、と吠えたサヨクがいたが、アジアへの加害については日本人全員に責任があるとする主張を持っていて憚りない。決起将校たちは今の日本をみてどう思うのだろうか。何を感じるのだろう。農村の困窮に心を痛め、政治の腐敗に鉄拳を下そうと立ち上がった若者たち。安藤ももふく氏や本田そういちろう氏を思い浮かべつつ、やはり日本人はすごいと素直に思いたい。
posted by せつな at 08:21Comment(0)日記