12月26日 朝

朝ごはんを食べながらテレビを観ているとヘンゼルとグレーテルを題材にした模擬裁判のようなことをやっていた。しばらく見入ったのだけど、これは道徳の授業ではよく用いられる手法なのか以前にも見かけたことがある。最近、世の中を賑わせているのがこれと同様で「もし桃太郎が鬼にも家族がいることを知ったらどうだろう」という岡山県の教師の問いかけ。ソースである朝日新聞の記事は「多様な価値観がぶつかりあう時代に異なる視点の持つ大切さを考える」と伝えるが、はっきりいっておとなでも詭弁の嵐になるだけで教育の観点からすれば疑問符が浮かぶばかりだ。まして思考の骨格のできていない中学生に議論させる意図はなんなのか下衆に勘繰りたくなる。先ごろ、国連を舞台に日本が議長国として安保理をとりまとめたのは記憶に新しいが、その際の米国と北コリアの応酬は見ものだった。北コリアの主張は観点を変えれば国際社会を納得させるものであり、根拠も明確だった。従来通りの説明で、どういったかというと「米国の核の脅威から自国民の平和と安全を守るための自衛的手段である。核の不拡散で最初に裁かれる国は米国だ」これに対する米国側の回答は「北コリアの核保有は絶対に認めない。彼らだけが緊張の原因であり、彼らだけが責任を負う」で北コリアの発言を一言も掬い上げることはなかった。ディベートの基本は相手の用いる言葉の引用をたくみに避けること。これによって主導権は左右される。先の道徳の授業で教師の訴えるべきは視点の多角化にあるが、そんなものを押し売りして生きる人間は信用に値しない。隣人を愛せよと説法するいっぽうで自宅玄関の施錠は欠かさない連中。人間を襲うヒグマの親子の光景も熊の視点ではほほえましく映るだろう。ほら、残さずたあんと食べて大きくなりなさい。しかし、喰われている人間が自分の家族としたらほとんどの人間は発狂するだろう。たたみいわしだってジェノサイドだ。多様な視点を持つことが自身の利益につながることもあると気づくのは一定の年齢に達してからだ。中学生にさせるべきは議論ではなく学習だ。桃太郎は善で鬼は悪。これを論理的に教えるだけでいい。昔、グリーンマイルというベストセラー小説と映画があったが、登場人物の死刑囚全員いずれ刑を執行される立場にある。これは確定的でいかなる理屈も言い分も間にはさむ余地はない。作品も終盤に差し掛かると、焦点は冤罪か有罪かに当たるだけで、死刑囚そのものの人格をそんたくすべきではないことが暗に示される。法律の発端はまさにそこにある。リンゴを選択したら無罪。金を選んだら死刑。洗練されたからといって現在の裁判制度はこの延長線を逸脱するものではない。論理的思考の完成を目指すのであれば必要なのは哲学ではなく数学だ。サヨク教師によってねじ曲げられる価値観ほどいびつなものはない。
posted by せつな at 07:27Comment(0)日記